時雨の百人一首

トップ コラム アプリ 和歌の一覧・検索

六歌仙

古今和歌集の「仮名序」(仮名で書かれた序文)において作者の紀貫之は「近き世に、その名聞こえたる人」(紀貫之から見て一世代前の高名な歌人)として6名の歌人を取り上げて論評しています。論評はいずれも辛口ですが、論評された6名の歌人たちは後の時代に六歌仙と呼ばれ、崇められるようになりました。

僧正遍昭

僧正遍昭

僧正遍昭

天つ風
雲のかよひ路
吹きとぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ

原文

歌のさまは得たれども、まこと少なし。例えば、絵に描ける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

現代語訳

歌風はそれらしいが、真実味が少ない。例えば、絵に描いた女を見ていたずらに心を動かしているようなもの。

僧正遍昭のページはこちら


在原業平

在原業平

在原業平

ちはやぶる
神代もきかず
竜田川
から紅に
水くくるとは

原文

その心余りて詞たらず。しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるがごとし。

現代語訳

詩情があふれて言葉が足りていない。しおれた花に色がなく香りが残っているようなもの。

在原業平のページはこちら


文屋康秀

文屋康秀

文屋康秀

吹くからに
秋の草木の
しをるれば
むべ山風を
嵐といふらむ

原文

詞はたくみにてその様身に負はず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし。

現代語訳

言葉の使い方は巧みだが、歌が心情とつりあっていない。言わば商人が立派な衣装を着ているようなもの。

文屋康秀のページはこちら


喜撰法師

喜撰法師

喜撰法師

わが庵は
都の辰巳
しかぞすむ
世をうぢ山と
人はいふなり

原文

詞かすかにして、始め終はり確かならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。

現代語訳

言葉がぼんやりして歌の始めと終わりがつながっていない。言わば秋の月を見ているうちに、夜明け前の雲に出会ったようなもの。

喜撰法師のページはこちら


小野小町

小野小町

小野小町

花の色は
うつりにけりな
いたづらに
わが身よにふる
ながめせしまに

原文

いにしへの衣通姫そとおりひめの流なり。あはれなるやうにて強からず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。

現代語訳

作者は衣通姫そとおりひめの歌風を汲み、しみじみとした風情があるが、強さがない。言わば美女が悩んでいるところがあるのに似ている。

小野小町のページはこちら


大友黒主

大友黒主

大友黒主

春さめの
ふるは涙か
桜花
散るを惜しまぬ
人しなければ

原文

そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花の陰に休めるがごとし。

現代語訳

歌風がお粗末。言わば薪を背負う山人が花の陰で休んでいるようなもの。

大友黒主は六歌仙では一人だけ百人一首に収録されませんでした。


六歌仙以外の歌人

原文

この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生ふる葛の、はひ広ごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし。

現代語訳

この他のその名が知られている歌人は野辺に生える葛が這い広がり、林に繁る木の葉のようにたくさんいるけれど、歌の本質を理解していないに違いない。

辛口コメントの理由

六歌仙の論評は辛口で批判的に聞こえますが「この他の人々」に対する論評を読むと、
六歌仙は歌の本質を理解している歌人として評価されていることがわかります。

実は古今和歌集の序文では、六歌仙の論評に先立って柿本人麻呂
山部赤人を歌聖(和歌の理想的な詠み手)として紹介しています。
やはり六歌仙は紀貫之から見て一世代前の高名な歌人を取り上げただけのようです。