時雨の百人一首

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日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー

Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox

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月 雲

紫式部むらさきしきぶ

めぐり
しやそれとも
わかぬ
雲隠くもがくれにし
夜半よわつきかな

紫式部
紫式部

I WANDERED forth this moonlight night, And some one hurried by; But who it was I could not see,— Clouds driving o'er the sky Obscured the moon on high.Murasaki Shikibu

57番歌
めぐりしやそれとも わかぬ
雲隠くもがくれにし 夜半よわつきかな
作者:紫式部むらさきしきぶ(970年頃~1014年頃)
出典:新古今和歌集
現代語訳
久しぶりにめぐり会って、それが誰かわからないうちにあなたは雲に隠れる夜半の月のように帰ってしまった。
解説
『新古今和歌集』の詞書に「早くより童友達に侍りける人の年頃経て行き逢ひたるが、ほのかにて七月十日ごろ月にきほひて帰り侍りければ」と記されており、この歌は、幼友達との久しぶりの再会にもかかわらず、すぐに帰ってしまった友達を残念に思って詠まれたものです。
どんな人?
幼い頃から賢く、父が弟に漢詩を読み聞かせていると、傍らで聞いていた紫式部の方が覚えが早かったとか。あるとき面白い物語を書く女性いると聞きつけた藤原道長に抜擢され、一条天皇中宮彰子に仕えることに。紫式部は、彰子の教育係を務めながら、世界で最初の長編小説『源氏物語』を完成させました。
語句・豆知識
めぐり逢ひ
巡り会って
それ
見たのかそれかどうかも
わか
見分けがつかない間に
雲隠れ
月が雲に隠れた
夜半 かな
真夜中の月なのだった
紫式部の系図
紫式部の系図 中納言朝忠 大弐三位 藤原兼輔

の番号が付いている人物をクリックすると、その歌人のページに移動します。

紫式部の夫である宣孝のぶたかはまたいとこです。
また、紫式部が仕えた彰子の母親である源倫子も
紫式部のまたいとこです。

紫式部は彰子の教育係をしたり、世界最古の長編小説となる『源氏物語』を執筆したりしました。その甲斐があったのか定子に一途だった一条天皇は、少しずつ彰子を寵愛するようになりました。

紫式部は夫・宣孝との間に藤原賢子かたこ大弐三位だいにのさんみをもうけています。彼女もまた彰子に仕えました。

紫式部誕生

名前は不明。

越前へ引っ越し

越前守に任じられた父・藤原為時に同行し、2年ほど滞在。

山城守・藤原宣孝と結婚

紫式部は26歳。藤原宣孝は48歳。

賢子(大弐三位)を出産

父・為時が京に戻る

夫・藤原宣孝が死去

源氏物語』を執筆開始

一条天皇の中宮・彰子に出仕

紫式部日記』を執筆

父・為時が越後守として越後に赴任

弟・惟規が越後で死去

一条天皇が崩御

一条天皇崩御後も紫式部は彰子に仕えていました。
藤原実資は、日記『小右記』に彰子への伝言係として紫式部を頼っていたという記述を残しており、それによると、紫式部は1019年までは生存していたことが確認されています。

父・為時が京に戻る

父・為時が出家

娘・賢子が皇太后・彰子に仕える

紫式部死去

父・為時が死去

紫式部の女房名
紫式部の本名はわかっていませんが、彰子に仕えると、姓が「藤原」で、父の官職がかつて「式部丞しきぶのじょう」だったことから「藤式部とうしきぶ」と呼ばれました。後に紫式部が書いた『源氏物語』が有名になると、物語のヒロインである「紫の上」にちなんで「紫式部」と呼ばれるようになったようです。
「日本紀の御局」というあだ名

紫式部は『紫式部日記』の中で 日本紀にほんぎ御局みつぼねというあだ名を付けられたと明かしています。

一条天皇は、『源氏物語』を人に読ませて聞いていた際に「この人は日本紀をこそ読み給ふべけれ」(作者である紫式部は、日本紀を読んでいるに違いない)と紫式部の学識の深さを賞賛しました。この言葉を耳にした先輩女房の左衛門内侍さえもんのないしは、紫式部をからかうつもりで「日本紀の御局」というあだ名をつけたのです。

実際の紫式部は、学識をひけらかすことを避け、単純な漢字さえ書けないふりをしていたと言われています。『紫式部日記』の中では、このあだ名を付けられたことを滑稽に感じていた旨が記されています。一方で、彼女は、彰子にこっそり『新楽府』という漢籍を御進講していたため、そのことが左衛門内侍に知られると厄介だと恐れていたことも日記に書かれています。

結婚前に夫になる宣孝に贈った歌
紫式部が越前守の父と越前国で暮らしていたとき、宣孝のぶたか から求婚されました。しかし、宣孝は子をもうけた妻が複数いたうえに、別の女性にも求婚中でした。年が明けた頃にそんな宣孝から「春になれば氷が溶けるようにあなたの心も私にうち解けると教えてあげたい」と手紙に書いて寄こしました。そこで紫式部は次の歌を贈りました。

原文

はるなれど 白嶺しらね深雪みゆき いやつもり
くべきほどの いつとなきかな 『紫式部集』

現代語訳

春になりましたが、こちらの白山の雪はますます積もっています。解けるのはいつのことかわかりません。

夫婦喧嘩をしたときの歌
紫式部は、夫の宣孝が紫式部の手紙を他人に見せていることに憤慨し、これまで送った手紙を返すにように言いました。
すると宣孝は紫式部に絶交をほのめかしました。このことを巡って2人は次のように歌をやりとりしています。
紫式部の歌

原文

ぢたりし うへ薄氷うすらひ けながら
さはえねとや やま下水したみず 『紫式部集』

現代語訳

凍りついていた川面の薄氷が解けるように
うち解けた私たちの仲なのに
絶えてしまえばよいとおっしゃるのですか?

夫・藤原宣孝の歌

原文

東風こちかぜくるばかりを そこゆる
石間いしまみずえばえなむ 『紫式部集』

現代語訳

春に吹く東風で解けるほどの氷なら、底が見える岩間の水のようなもの。二人の仲が絶えるならそれでのだ。

紫式部の歌

原文

へば さこそはえめ
なにかその
みはらのいけ
つつみしもせむ 『紫式部集』

現代語訳

もう言葉を交わさないというならばそうしましょう。
どうしてそのみはらの池の堤ではないですが
あなたは苛立ちを包み隠すことはしないのですから。

夫の宣孝が亡くなったときの歌

原文

ひとの けぶりとなりし ゆうべより
ぞむつましき 塩釜しおがまうら 『新古今和歌集』紫式部

現代語訳

親しかった人が煙になった夕方からというもの
塩釜の浦にたなびく煙までも睦まじく思う。

「むつまじき」の「むつ」には、塩竃の浦がある「陸奥」が掛かっています。

娘が病気になったときに詠んだ歌
この歌は、娘の賢子(大弐三位)が病気になったときに紫式部が詠んだ歌です。
紫式部は、侍女が竹を花瓶に挿して賢子(大弐三位)の回復を祈願している様子を見て作歌しました。

原文

若竹わかたけひゆくすえいのるかな
このしと いとふものから 『紫式部集』

現代語訳

若竹のような娘の行く末を祈らずにはいられない。私自身はこの世をつらく嫌だと思っているだけれど。

人間関係の悩みを詠んだ歌
宮仕えし始めた紫式部は、周りの女房から受け入れられず、苦労しました。そんなときに紫式部が詠んだ歌です。

原文

わりなしや ひとこそひとわざらめ
みづからをや おもつべき 『紫式部集』

現代語訳

つらいことだ。他人から人と認めれてもらえないのは。
でも自分で自分を見捨てることなんてできるだろうか。

敦成あつひら親王(後一条天皇)誕生の賀歌
次の歌は、中宮・彰子が出産した敦成あつひら親王(後一条天皇)の誕生を祝って詠まれました。

原文

めづらしき ひかりさしそふ さかずき
もちながらこそ 千代ちよもめぐらめ 『後拾遺和歌集』紫式部

現代語訳

美しい月光が射し込む盃は、皆さんに持たれながら、
望月のように欠けることなく、永く続くことでしょう。

大河ドラマ『光る君へ』第36回「待ち望まれた日」では、藤式部(紫式部)が「中宮様という月の光に皇子様という新しい光が加わった盃は、今宵の望月のすばらしさ そのままに千代もめぐり続けるでありましょう。」と歌の意味を説明していました。

次の歌は、敦成あつひら親王(後一条天皇)の誕生を祝って、藤原道長の屋敷・土御門邸の池に映る月を眺めて詠まれました。

原文

くもりなく 千年ちとせめる みずおも
宿やどれるつきかげものどけし 『新古今和歌集』紫式部

現代語訳

曇りなく、千年にわたって澄んでいる池の水面では
映っている月の姿ものどかです。

藤原道長との贈答歌(1/3)
彰子が産んだ敦成あつひら親王の五十日いか(生誕50日目に行われるお食い初めのような儀式)が行われた晩、紫式部は、宴の席で道長に歌を詠むように促され、次のように詠みました。道長も即座に返歌しました。
紫式部の歌

原文

いかにいかが かぞへやるべき
八千歳やちとせ
あまりひさしき
きみ御代みよをば 『紫式部日記』紫式部

現代語訳

いったいどのように数えたらよいでしょうか。
八千代ほど長く続く親王様のお歳を。

藤原道長の歌

原文

あしたづの よはひしあらば きみ
千歳ちとせかずかぞへとりてむ 『紫式部日記』藤原道長

現代語訳

私に鶴のような寿命があれば、
親王様の千歳の数も数えられるのだろう。

藤原道長との贈答歌(2/3)
源氏物語を書いていた紫式部に対して、藤原道長は梅の実の下に敷かれていた懐紙に紫式部をからかう和歌を書きました。その和歌に対して、紫式部も返しの歌を詠んでいます。
藤原道長の歌

原文

すきものと にしてれば ひと
らでぐるは あらじとぞおも『紫式部日記』藤原道長

現代語訳

好きものであると評判になっているので、
あなたを見たら口説かずにはいられないと思うだろう。

「すきもの」は「酸っぱい梅」と「好色な人」を掛けた言葉です。また、「折らで過ぐる」は梅の枝を折らずに通りすぎる(=我がものにせずに過ぎる)という意味が込められています。

紫式部の歌

原文

ひとにまだ られぬものを だれかこの
すきものぞとは くちならしけむ 『紫式部日記』紫式部

現代語訳

人に告白されたことはありませんのに、
誰がすきものと言いふらしたのでしょうか。

藤原道長との贈答歌(3/3)
紫式部が宮仕えをしていた頃、夜更けに彼女のつぼね(=部屋)の戸を叩く人物がいました。
紫式部は警戒して戸を開けることはありませんでしたが、翌日、藤原道長から歌が届き、紫式部も歌を返しています。
藤原道長の歌

原文

もすがら 水鶏くいなよりけに なくなくぞ
真木まき戸口とぐちたたきわびつる 『紫式部日記』藤原道長

現代語訳

一晩中水鶏よりもひどく泣き、
真木の戸口を叩いてうらい思いをしましたよ。

紫式部の歌

原文

ただならじ とばかりたたく 水鶏くいな
あけてはいかに くやしからまし 『紫式部日記』紫式部

現代語訳

ただごとでないとばかりに戸を叩く水鶏ですから、
開けてしまったら悔しい思いをしたことでしょう。

蘆山寺庭園(源氏庭)
蘆山寺庭園(源氏庭)

蘆山寺は京都市上京区に位置する寺院で、紫式部にゆかりのある場所です。かつてこの地には、彼女の曾祖父・藤原兼輔が建てた邸宅があり、紫式部もこの邸で生まれ育ちました。

境内には紫式部と大弐三位の歌碑が建てられており、訪れる人々にその歴史を伝えています。 また、平安朝の庭園を表現した白砂と苔の枯山水庭園「源氏庭」が整備されており、夏には紫式部にちなんだ紫色の桔梗がきれいに咲きます。地図へのリンク

ムラサキシキブ
ムラサキシキブ(植物)

ムラサキシキブはシソ科ムラサキシキブ属の落葉低木。
日本各地の林に自生し、秋に紫色の実をつけます。

石山寺
石山寺
写真:Adobe Stock

滋賀県大津市。名前の通り、硅灰石という石の上に立つ寺院です。紫式部が石山寺に参篭した際、「須磨」と「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られています。
地図へのリンク

近江八景全図 石山より見る
石山寺
Utagawa Hiroshige, Public domain, via Wikimedia Commons

歌川広重による『近江八景全図 石山より見る』。
紫式部が琵琶湖の湖面に映る月を見る姿が描かれています。

紫式部公園
紫式部公園
Opqr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

福井県越前市にある公園。平安時代の寝殿造りが再現された庭園があります。紫式部は、越前の国司となった父・藤原為時と共に一年余りを越前で過ごしました。地図へのリンク

紫式部公園内の紫式部像
紫式部公園の紫式部像
公園内には黄金の紫式部像があります。像の見つめる先には日野山。紫式部は都をなつかしんで次の歌を詠んでいます。

原文

ここにかく 日野ひのすぎむら うづゆき
小塩をしほまつ今日けふやまがへる

現代語訳

ここ越前ではこのように日野山の杉林は雪に埋もれんばかり。都の小塩山の松にも今日は雪が降り積もっているのでしょうか。

源氏物語
宇治十帖モニュメント

全54帖からなる世界最古の長編恋愛小説。主人公の光源氏を通して平安貴族の文化、恋愛模様が描かれています。

30言語以上に翻訳され、1000年の時を超え、世界中で読み継がれており、日本国内でも著名な作家が次々に現代語に訳しています。

写真は源氏物語「宇治十帖」のモニュメント。宇治川の朝霧橋付近にあります。

源氏物語の冒頭
『物語』といえば子供の読み物という認識が一般的だった時代において、このように滑らかでありながらどこか不穏な文章で始まる、現実味あふれる物語は衝撃的であり、宮廷の人々の心を大いにざわつかせたのでした。

原文

いづれの御時おんどきにか、
女御にょうご更衣こういあまたさぶらひたまひける中に、
いとやむごとなききわにはあらぬが、
すぐれてときめきたまふありけり。

現代語訳

いつの時代のことでしたでしょうか。
帝に女御や、更衣がたくさん仕える中に、
それほど身分が高くはないのに、
ひときわ、帝から寵愛されている女性がいました。

『源氏物語』の光源氏の辞世の歌
この歌は、大河ドラマ『光る君へ』第42回で登場しました。ドラマでは、藤原道長が紫式部の局を訪ねて、三条天皇が道長の娘で、三条天皇の中宮・妍子きよこのもとにお渡りにならないことを相談しました。道長は「一条天皇と一条天皇の中宮・彰子あきことの間には『源氏物語』があったが、三条天皇と妍子の間には何もなく、『源氏物語』は役に立たない」と言いました。紫式部は、道長との会話の後に静かに次の歌を記しました。この歌は『源氏物語』で光源氏が詠んだ最期の歌です。

原文

ものおもふと ぐる月日つきひらぬ
としもわが今日きょうきぬる 『源氏物語』光源氏

現代語訳

物思いばかりして月日が過ぎたことも知らぬ間にこの年も我が生涯も今日で尽きるのか。

源氏物語を高く評価した俊成の歌
この歌は、藤原俊成歌会で「恋」を題材として詠んだ一首です。俊成は『源氏物語』を「もののあはれ」を体現する文学として高く評価し「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」という言葉を残しています。この歌では、恋をすることで、喜びだけでなく、悲しみや苦しみを通じて人は心豊かになり「もののあはれ」つまり人生の儚さや切なさを深く理解することができると詠んでいます。

原文

こいせずは ひとこころも なからまし
もののあはれも これよりぞ『新古今和歌集』藤原俊成

現代語訳

恋をしなかったら、人には心というものが育たないだろう。 「もののあはれ」も恋をすることで理解できるのだ。

紫式部の辞世の句
紫式部が著した『源氏物語』は今や30言語以上に翻訳され、国内においても著名な作家が次々に現代語訳を出しており、1000年を超えて読み継がれています。しかし、作者である紫式部は、このような状況になるとは思いもよらなかったのかもしれません。

原文

だれながらへてきとめし
あとえせぬ 形見かたみなれども 『新古今和歌集』紫式部

現代語訳

誰が生き長らえて(死にゆく)私の作品を読んでくれるだろうか。 書いた作品は消えない形見ではあるけれども。

地獄に落ちたと考えられた紫式部
篁と紫式部の墓
嵯峨と申す, CC0, via Wikimedia Commons

紫式部と小野篁の墓は隣り合っています。

平安時代末期、『源氏物語』を執筆した紫式部は、愛欲にまみれた作り話をした罪で死後に地獄に落ちたと考える人たちがいました。

そこで彼らは、紫式部の墓を閻魔庁で働いていると信じられていた小野篁の墓の隣に移設し、紫式部が地獄から救い出されることを願ったと伝えられています。

画像の手前が篁の墓、奥が紫式部の墓です。

一条天皇の宮廷サロン
紫式部は、一条天皇の宮廷サロンで活躍し、平安文学を代表する作家になりました。
「平安王朝の女性作家たち」というコラムがありますので、よかったらご覧ください。

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