時雨の百人一首

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※音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー

月 雲

語句・豆知識
見しや
見たのか
「し」は過去、「や」は疑問を表します。
わかぬ間に
見分けがつかない間に。「わく」は区別する という意味。
雲隠れにし
月が雲に隠れた意味ですが、人の姿が見えなくなった意味を含んています。
夜半
真夜中
紫式部の系図
紫式部の系図
※クリックすると拡大表示されます。

紫式部の夫である宣孝のぶたかはまたいとこです。
また、紫式部が仕えた彰子の母親である源倫子も
紫式部のまたいとこです。
紫式部は彰子の教育係をしたり、世界最古の長編小説となる『光源氏』を執筆したりしました。その甲斐があったのかわかりませんが、定子に一途だった一条天皇は少しずつ彰子を寵愛するようになったといわれています。

結婚前に夫になる宣孝に贈った歌
紫式部が越前守の父と越前国で暮らしていたとき、宣孝のぶたかから求愛されました。しかし、宣孝は子をもうけた妻が複数いたうえに、別の女性にも求婚中でした。年が明けた頃にそんな宣孝から「春になれば氷が溶けるようにあなたの心も私にうち解けると教えてあげたい」と手紙に書いて寄こしました。そこで紫式部は次の歌を贈りました。

原文

はるなれど 白嶺しらね深雪みゆき いやつもり
くべきほどの いつとなきかな

現代語訳

春になりましたが、こちらの白山の雪はますます積もっています。解けるのはいつのことかわかりません。

夫婦喧嘩をしたときの歌
紫式部は、夫の宣孝が紫式部の手紙を他人に見せていることに憤慨し、これまで送った手紙を返すにように言いました。
すると宣孝は紫式部に絶交をほのめかしました。このことを巡って2人は次のように歌をやりとりしています。
紫式部の歌

原文

ぢたりし うへ薄氷うすらひ けながら
さはえねとや やま下水したみず

現代語訳

凍りついていた川面の薄氷が解けるように
うち解けた私たちの仲なのに
絶えてしまえばよいとおっしゃるのですか?

宣孝(夫)の歌

原文

東風こちかぜくるばかりを そこゆる
石間いしまみずえばえなむ

現代語訳

春に吹く東風で解けるほどの氷なら、底が見える岩間の水のようなもの。二人の仲が絶えるならそれでのだ。

紫式部の歌

原文

へば さこそはえめ なにかその
みはらのいけつつみしもせむ

現代語訳

もう言葉を交わさないというならばそうしましょう。
どうしてそのみはらの池の堤ではないですが
あなたは苛立ちを包み隠すことはしないのですから。

「みはらの池」は「包み」と縁語です。

夫の宣孝が亡くなったときの歌

原文

ひとの けぶりとなりし ゆうべより
ぞむつましき 塩釜しおがまうら

現代語訳

親しかった人が煙になった夕方から
塩釜の浦にたなびく煙までも睦まじい

「むつまじき」の「むつ」には、塩竃の浦がある「陸奥」が掛かっています。

宮仕えし始めたときの歌
宮仕えし始めた紫式部は、周りの女房から受け入れられず、苦労しました。そのときに詠んだ歌です。

原文

わりなしや ひとこそひとわざらめ
みづからをや おもつべき

現代語訳

つらいことだ。他人から人と認めれてもらえないのは。
でも自分が自分を見捨てることなんてできるだろうか。

一条天皇の宮廷サロン
紫式部は、一条天皇の宮廷サロンで活躍しました。宮廷サロンの相関図はこちらをご覧ください。
源氏物語
宇治十帖モニュメント
写真:photoAC

全54帖(巻)からなる長編恋愛小説。主人公の光源氏を通して平安貴族の文化、恋愛模様が描かれています。写真は源氏物語「宇治十帖」のモニュメント。宇治川の朝霧橋付近にあります。

紫式部の墓
今や世界に冠たる大作家として名高い紫式部ですが、平安時代末期、彼女は作り話をしたという罪で死後に地獄に落ちたと考えられていました。そこで紫式部のファンは彼女の墓を閻魔庁で働いているという人物の墓の隣に移設し、紫式部が地獄から救い出されるのを願ったと言い伝えられています。詳しくはこちらをご覧ください。
蘆山寺庭園(源氏庭)
蘆山寺庭園(源氏庭)
写真:photoAC

蘆山寺は京都市上京区にある寺院。紫式部が生まれ育った場所に建てられたお寺。境内には紫式部と大弐三位の歌碑があります。また、平安朝の庭園の「感」を表現したというた枯山水庭園である「源氏庭」が整備されており、夏には紫式部にちなんだ紫色の桔梗がきれいに咲きます。地図へのリンク

ムラサキシキブ
ムラサキシキブ(植物)
写真:photoAC

ムラサキシキブはシソ科ムラサキシキブ属の落葉低木。
日本各地の林に自生し、秋に紫色の実をつけます。

石山寺
石山寺
写真:Adobe Stock

滋賀県大津市。名前の通り、硅灰石という石の上に立つ寺院です。紫式部が石山寺に参篭した際、「須磨」と「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られています。
地図へのリンク

近江八景全図 石山より見る
石山寺
Utagawa Hiroshige, Public domain, via Wikimedia Commons

歌川広重による『近江八景全図 石山より見る』。
紫式部が琵琶湖の湖面に映る月を見る姿が描かれています。

紫式部公園
紫式部公園
Opqr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

福井県越前市にある公園。平安時代の寝殿造りが再現された庭園があります。紫式部は、越前の国司となった父・藤原為時と共に一年余りを越前で過ごしました。地図へのリンク

紫式部公園内の紫式部像
紫式部公園の紫式部像
写真:photoAC
公園内には黄金の紫式部像があります。像の見つめる先には日野山。紫式部は都をなつかしんで次の歌を詠んでいます。

原文

ここにかく 日野ひのすぎむら うづゆき
小塩をしほまつ今日けふやまがへる

現代語訳

ここ越前ではこのように日野山の杉林は雪に埋もれんばかり。都の小塩山の松にも今日は雪が降り積もっているのでしょうか。

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