時雨の百人一首

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日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー

Translated by WILLIAM N. PORTER
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参議篁さんぎたかむら

わたのはら
八十島やそしまかけて
でぬと
ひとにはつげよ
あまのつりぶね

参議篁
参議篁

OH! Fishers in your little boats, Quick! tell my men, I pray, They'll find me at Yasoshima, I'm being rowed away Far off across the bay.The Privy Councillor Takamura

11番歌
わたのはら 八十島やそしまかけて でぬと
ひとにはつげよ あまのつりぶね
作者:参議さんぎたかむら(802年~852年)
出典:古今和歌集 羇旅
現代語訳
わたしが大海原の島々に向けて船出したと伝えておくれ。漁師の釣り舟よ。
解説
『古今和歌集』の詞書に「隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣はしける」とあります。この歌は隠岐に島流しされることになった篁が京の都に残してきた家族に向けて詠んだものです。
どんな人?
参議篁の本名は小野篁で、小野小町の祖父にあたります。彼は遣唐副使として唐に向かう途中、上官から漏水した船と交換するように命じられましたが、これを拒否しました。さらに遣唐使の無能さを批判する漢詩『西道謡さいどうよう』を作ったことで嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐配流され、厳しい生活を送りました。2年後には恩赦を受けて都に戻り、官職に復帰しています。
語句・豆知識
わたの原
大海原
八十島 かけ
多くの島を目指して
漕ぎ出で
漕ぎ出したと
つげよ
人(都に残してきた人たち)に伝えておくれ
あま つり舟
漁師の釣舟よ
小野篁の系図
小野篁の系図 小野小町

の番号が付いている人物をクリックすると、その歌人のページに移動します。

小野氏は飛鳥時代から平安時代にかけて活躍しました。
飛鳥時代に遣隋使の大使を務めた小野妹子は聖徳太子が書いた「日出処天子」の国書を隋の皇帝に渡したことで知られています。

隠岐で詠んだ歌
隠岐に配流されて、厳しい生活を強いられた様子が詠まれています。

原文

おもひきや ひなわかれに おとろへて
海人あまなわたぎ いさりせむとは 『古今和歌集』小野篁

現代語訳

思いも寄らなかったことだ。都と別れて、ひなびた田舎でやつれ果て、漁師の網を引いて、魚を獲ろうとは。

梅を詠んだ歌
隠岐に配流されて、厳しい生活を強いられた様子が詠まれています。

原文

はないろゆきにまじりて えずとも
をだににおひとるべく 『古今和歌集』小野篁

現代語訳

梅の花の色が雪に紛れて見えなくても、せめて香りだけでも匂わせておくれ。梅の花の存在を人々が気づくように。

遣唐使船
日本から唐に派遣された人々を乗せた遣唐使船。定員は150名と言われています。大阪を出発して、瀬戸内海から関門海峡を通り、そこから10日間かけて日本海を渡って唐を目指しました。無事に行って帰れる確率は約25%で命がけの航海でした。篁が不具合のある船には乗りたくないと考えたのは当然だったと考えられます。
遣唐副使
遣唐使の使節団は基本的に大使(一等官)、副使(二等官)、判官(三等官)、録事(四等官)という構成になっており、参議篁は二等官に相当する副使でした。ちなみに漏水した船と取り替えるように迫った上官は遣唐大使で、藤原常嗣つねつぐという藤原北家の公卿でした。
西道謡(さいどうよう)
篁が遣唐使船の上官に抗議して作った漢詩。この漢詩を作ったことで嵯峨上皇の怒りを買って隠岐に配流されました。
残念ながら「西道謡さいようどう 」は現存していないため、内容は明らかではありません。ところで、遣唐船は遭難のリスクが高く、亡くなる人も多かったため、篁は人的損失を度外視した遣唐使の政策に対して疑問を感じていたことが推測されます。
悪無善
大江匡房が著した『江談抄』に嵯峨天皇の御代に「悪無善」という落書が出回りました。その意味を解読できる者はいませんでしたが、篁に見せると即座に「さが くば かりなまし」(嵯峨天皇がいなければよいでしょう)と読み解きました。即答した篁は落書の犯人ではないかと疑われましたが、「子子子子子子子子子子子子」を読めと命じられると、こちらも簡単に読み解いたため、疑いが晴れたといわれています。
子子子子子子子子子子子子
ねこ仔猫こねこ獅子しし 仔獅子こじし」と読む言葉遊び。嵯峨天皇が発案し、小野篁が解いたと言われています。
閻魔庁の官人
六道珍皇寺の井戸
663highland, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう江談抄ごうだんしょう などで篁は昼間は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁で亡くなった人を地獄行きにするかを決める裁判の補佐をしていたと記されています。

篁にどうしてこのような伝説が生まれたのか謎ですが、篁が非常に高身長(186cm)であったことや、反骨精神があり、激情に駆られる性格であったこと、また刑罰を所管する刑部大輔を務めていたことなどが影響し、奇怪な伝説が生まれたのかもしれません。

京都市東山区にある寺院:六道りくどう珍皇寺ちんのうじ には篁が地獄を行き来したという井戸(画像左奥)があります。

紫式部と隣同士の墓
篁と紫式部の墓
嵯峨と申す, CC0, via Wikimedia Commons

紫式部と小野篁の墓は隣り合っています。

平安時代末期、『源氏物語』を執筆した紫式部は、愛欲にまみれた作り話をした罪で死後に地獄に落ちたと考える人たちがいました。

そこで彼らは、紫式部の墓を閻魔庁で働いていると信じられていた小野篁の墓の隣に移設し、紫式部が地獄から救い出されることを願ったと伝えられています。

画像の手前が篁の墓、奥が紫式部の墓です。

葛飾北斎による浮世絵
葛飾北斎による木版画
National Diet Library, Public domain, via Wikimedia Commons

江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による作品『百人一首姥かゑとき』です。百人一首の歌を乳母がわかりやすく絵で説明するという趣旨で制作されたものです。

アワビを獲る女性たちと獲ったアワビを船上で待ち受ける男性たちが描かれています。遠方には島々が描かれており、歌に詠まれた八十島(瀬戸内海に浮かぶ数多くの島)が再現されています。

歌川国芳の『百人一首之内』
歌川国芳による参議篁の浮世絵
British Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による浮世絵です。
百人一首の和歌に合わせた情景が描かれています。
遣唐使船の雰囲気が伝わってきます。

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