時雨の百人一首

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平安王朝の女性作家たち

紫式部が活躍した時代の女性作家たちは、天皇の后に仕えている立場で「女房」と呼ばれる立場に身を置いていました。女房は妻の意味ではなく、自分専用の部屋「房」を持ち、住み込みで高貴な人の身の回りのお世話をする女性のことです。彼女たちは宮廷で生活しながら雅な平安王朝を舞台にした文学を執筆しました。

一条天皇の時代の后事情

一条天皇は藤原道隆の娘である定子を中宮(天皇の后として最高位)に迎えていましたが、道隆が亡くなると、権力を掌握した藤原道長が定子を皇后と呼び、彰子を中宮として即位させました。皇后は中宮の別名ですが、道長は皇后と中宮という名前を分けることで「一帝二后」と呼ばれる状態を周囲に認めさせました。

藤原氏は自分の娘を天皇に嫁がせて、娘に天皇の皇子を産ませ、自分が天皇の祖父になることで政治を執り仕切る摂政政治を行っていたので、道長は一条天皇にすでに定子という后がいたにもかかわらず、自分の娘である彰子を強引に一条天皇の后として入内させたと考えられています。

彰子の女房に抜擢された紫式部

不条理ながら一条天皇の皇子を宿すことが宿命づけられた彰子。しかし、一条天皇は定子を愛していたため、当初は彰子に振り向くことはありませんでした。定子には清少納言が仕えていたこともあり、教養の高い定子に一条天皇は魅了されていました。一条天皇の関心を彰子に向けさせたい道長は『源氏物語』の作者である紫式部を彰子の女房に抜擢しました。『源氏物語』の執筆はまだ初期段階でしたが、宮中ですでに話題になっており、一条天皇も物語に熱中していたのです。

清少納言に対する紫式部の評価

清少納言と紫式部は同世代の作家ですが、宮中に仕えていた時期は少し異なり、清少納言が宮仕えを辞めて6年後に紫式部は宮仕えを始めました。このため女房としてお互いに顔を合わせることはありませんでしたが、紫式部は『紫式部日記』の中で清少納言を次のように評しています。

原文

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。

現代語訳

清少納言は得意顔が甚だしい人でした。あれほどまでに利口ぶって漢字を大っぴらに書いているが、よく見るとまだまだ足りない点が多くあります。

紫式部が宮仕えし始めた頃、漢字の「一」も書けない素振りをしていたため、積極的に知識を披露する清少納言が才能を見せびらかしているように見えたのかもしれません。

後世に残る平安文学が誕生した理由

このようにして高い教養を持つ女性作家が女房として宮廷に集うことになり、宮廷文化に触れながらさらに教養を深め、女房同士がお互いに競い合うように筆を振るったことで後世に残る随筆や小説、日記文学が誕生したと考えられます。

女性作家たちの相関図

定子と彰子の相関図です。定子には清少納言が仕え、彰子には百人一首にも登場する6名の女性作家が仕えていました。大弐三位は紫式部の娘で、小式部内侍は和泉式部の娘です。それぞれ親子二代にわたってで彰子に仕えました。

※相関図の番号をクリックすると、その歌人のページにリンクします。