時雨の百人一首

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Translated by WILLIAM N. PORTER
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従二位家隆じゅにいいえたか

かぜそよぐ
ならの小川おがわ
ぐれ
みそぎぞなつ
しるしなりける

従二位家隆

みそきそな
つのしるし
なりける

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かぜそ

98番歌
かぜそよぐ ならの小川おがわぐれ
みそぎぞなつの しるしなりける
作者:従二位家隆じゅにいいえたか(1158年~1237年)
出典:新勅撰和歌集
現代語訳
風がそよそよと楢の葉を吹く。ならの小川の夕暮れは秋の気配がするけれど、水無月祓みなづきばらえの行事こそがまだ夏であることのあかし なのだなあ。
解説
『新勅撰和歌集』の詞書に「寛喜元年女御入内屏風に」とあり、この歌は、九条竴子が後堀河天皇に入内する際、嫁入り道具の屏風に描かれた絵の1つに添えられました。六月祓みなづきばらえの絵に合わせて詠まれた屏風歌です。
どんな人?
従二位家隆こと、藤原家隆は藤原俊成に和歌を学び、藤原定家と共に当時の歌壇を代表する存在でした。後鳥羽院の命により『新古今和歌集』の撰者の1人にも選ばれています。承久の乱で後鳥羽院が敗れて隠岐に流された後も、家隆は変わらぬ忠誠心を持ち続け、書状をやり取りしながら院を支え続けました。
語句・豆知識
そよぐ
風がそよそよと吹く
ならの小川
ならの小川の
夕暮れ
夕暮れは
みそぎ
禊ぎだけが
しるし なり ける
夏であることの証拠なのだなあ
藤原家隆の系図
藤原家隆の系図

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藤原家隆は、藤原俊成の養子・寂連の養子になっており、和歌を俊成に師事し、和歌の腕を磨き、百人一首の撰者・藤原定家と並び称されるほど、良きライバル関係にありました。2人は『新古今和歌集』の撰者に選ばれています。

家隆は、後鳥羽院に仕えました。院が「承久の乱」を引き起こし、敗れて隠岐に流された後も変わらぬ忠誠心で、自作の歌を院に送り続け、音信を絶やしませんでした。2人は書状をやりとりすることで「遠島歌合」を成立させています。

家隆の娘・土御門院小宰相は、土御門天皇の母・藤原在子に仕えました。この縁から家隆は、土御門天皇とも親交がありました。

末の松山を詠んだ歌
清原元輔が詠んだ「末の松山」を藤原家隆は次のように詠みました。
夜明けにたなびく雲が末の松山にかかり、まるで波が越えてくるような幻想的な景色を思い浮かべたのだと考えられます。

原文

かすみすえ松山まつやま ほのぼのと
なみはなるる 横雲よこぐもそら 『新古今和歌集』藤原家隆

現代語訳

波が越えることがないと言われる末の松山に霞が立ち込め、夜がほのぼのと明ける空には、たなびく雲が波からかすかに離れて、末の松山を越えようとしている。

琵琶湖を詠んだ歌
琵琶湖の岸辺で、水が凍りつき、波が沖へと遠ざかるほどの厳しい冬。
そんな寒さ厳しい夜明けの空に浮かぶ有明の月を詠んでいます。

原文

志賀しがうらとおざかりゆく 波間なみまより
こおりていづる 有明ありあけつき 『新古今和歌集』藤原家隆

現代語訳

志賀の浦。遠ざかっていく波間から、凍てついた夜明けに現れた有明の月。

橘を詠んだ歌
『古今和歌集』には「五月さつき花橘はなたちばなをかげば むかしひとそで ぞする」(詠み人知らず)という有名な歌があります。この歌以来、橘の花の香りは昔を思い出させるものとされてきました。家隆はこの伝統を踏まえ、次の歌でユーモアを交えた問いかけをしています。

原文

今年ことしより はなさきそむる たちばな
いかでむかしにおふらむ 『新古今和歌集』藤原家隆

現代語訳

今年から花を咲かせ始めた橘は、
どんなふうに昔の香りを漂わせるのだろう。

家隆が晩年に詠んだ歌
藤原家隆は、晩年、病気をきっかけに出家し、大阪市にある四天王寺付近に移り、夕陽庵せきようあん と名付けた庵を結びました。その庵から見える西海に沈む夕日を拝み、西方浄土への旅を願っていました。次の歌はその頃に詠まれました。現在では、この場所から夕日を望むことはできませんが、夕陽庵があったことにちなんで、この地域は「夕陽丘町」として地名にその名を残しています。

原文

ちぎりあれば 難波なにわさとに やどりきて
なみ入日いりびおがみけるかな 『古今著聞集』藤原家隆

現代語訳

前世からの約束があったので、 難波の里に移り住むことになり、ここから見える波間に沈む夕陽を拝むことになったのだな。

家隆塚
藤原家隆の墓
I, KENPEI, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

大阪市天王寺区夕陽丘町に家隆かりゅうづか という名前で親しまれている藤原家隆の墓があります。家隆が晩年を過ごした夕陽庵夕陽庵せきようあんの跡地に建てられたと言われています。

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