時雨の百人一首

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日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー

Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox

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後鳥羽院ごとばいん

ひともをし
ひともうらめし
きなく
おも
おも

後鳥羽院
後鳥羽院

How I regret my fallen friends How I despise my foes! And, tired of life, I only seek To reach my long day's close, And gain at last repose.The Retired Emperor Gotoba

99番歌
ひともをし ひともうらめし あきなく
おもおも
作者:後鳥羽院ごとばいん(1180年~1239年)
出典:続後撰集 雑
現代語訳
時には人が愛しく、時には人が恨めしく思われる。つまらなく世の中を思うがゆえに物思いに沈む私には。
解説
台頭する鎌倉幕府との軋轢や弱体化する朝廷に心を砕かれた後鳥羽院が心の内を吐露した歌です。この歌は後鳥羽院が「承久の乱」を引き起こす9年前、33歳のときに詠まれました。
どんな人?
後鳥羽院は、三種の神器が揃わないまま天皇に即位しました。そのことを引け目に感じていた後鳥羽院は、その引け目を克服するように、自らを鍛え上げ、和歌や囲碁、水泳、乗馬、狩猟と多くの分野で万能になりました。一方で、自信過剰だった面があり、1221年に北条義時の討伐の院宣を出すも、東国武士の支持を得られず、戦に敗れて、隠岐に配流されました。
語句・豆知識
人 も をし 人 も うらめし
人を愛しくも恨めしくも思われる
あじきなく
(努力してもどうにもならず)つまらなく
世 を 思ふ ゆゑ に
世の中を思うがゆえに
物思ふ 身 は
物思いにふける私は
後鳥羽院の系図・相関図
後鳥羽院は後白河法王の孫で、安徳天皇の異母弟です。彼には、土御門天皇と順徳院という2人の子供がいます。土御門天皇は4歳で即位しましたが、16歳のときに後鳥羽院によって譲位させられ、順徳院が新たに天皇となりました。温和な性格の土御門天皇に対し、順徳院は気性が激しかったようです。承久の乱の際、土御門天皇は父である後鳥羽院を思いとどまらせようとしましたが、順徳院は父と共に積極的に倒幕を支持したとされています。 後鳥羽院の系図・相関図 順徳院 藤原忠通 慈円 西園寺公経 源実朝

の番号が付いている人物をクリックすると、その歌人のページに移動します。

承久の乱

1185年、幕府が全国に地頭を置いたことにより、荘園からの収入が減少し、幕府との対立が深まります。後鳥羽院は北面武士に加えて西面武士を設置し、幕府に対抗する軍事力を強化しました。

1219年、源実朝が甥の公暁に暗殺され、公暁も幕府側の者により殺害されます。この出来事を受け、朝廷では幕府との融和政策を見直す動きが高まりました。さらに、幕府内で後継者争いが起こっていると判断した後鳥羽院は、1221年に北条義時討伐の院宣を発し、「承久の乱」を引き起こしました。

一方、幕府側は西園寺公経の家司らから早くも後鳥羽院の挙兵を察知していました。北条政子は、朝廷が幕府を倒そうとしていると御家人たちに訴え、内乱は朝廷軍と幕府軍の戦いへと発展します。幕府軍は東海道、東山道、北陸道の三道から京都に進軍し、院宣からわずか1カ月で朝廷軍を打ち破ります。後鳥羽院は隠岐に、順徳院は佐渡に、土御門院は土佐に配流され、仲恭天皇は退位させられました。

隠岐
隠岐
写真:Adobe Stock

島根県隠岐郡。「承久の乱」で破れた後鳥羽院は、隠岐に配流され、同地で58歳で崩御しました。地図へのリンク

『遠島百首』の代表歌
次の歌は、後鳥羽院が隠岐に配流される際、護送船の中で詠んだものと伝えられています。その時、海は大荒れで嵐が吹き荒れていましたが、後鳥羽院がこの歌を詠んだ途端、嵐は静まり海も穏やかになったと言われています。後鳥羽院の和歌への情熱は、隠岐に配流された後も衰えることなく『遠島百首』という百首歌を編纂しました。

原文

われこそは 新島守にいじまもり隠岐おきうみ
あら波風なみかぜ こころして

現代語訳

我こそはこの島の新たな番人である。
隠岐の海の荒い波や風よ、これからは穏やかに吹け。

次は『遠島百首』の最後に据えられた和歌です。後鳥羽院の無常観が表れています。

原文

かぎりあれば かや軒端のきばつき
らぬはひとすえそら

現代語訳

限りがあり人生。粗末な萱の軒端の月を眺めながら思うのは、人の行く末は分からないということだ。

藤原俊成の九十賀を祝う屏風歌
藤原俊成の九十賀を祝う屏風歌として後鳥羽院が詠んだ一首です。柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾の…」を本歌取りした歌です。後鳥羽院の時代に藤原顕輔が人麻呂影供を始めるなど、柿本人麻呂は、歌の神様として扱われていました。和歌の師と仰ぐ俊成の長寿を願う歌として敬意を込めて詠まれたと考えられます。
山鳥

原文

さくら遠山鳥とおやまどり
しだり
ながながし
あかぬいろかな

現代語訳

遠くの山に咲く桜。遠山鳥のしだり尾のように
長い一日をかけて見てもあきない色だな。

後鳥羽院の代表歌
この歌は、後鳥羽院の歌でもっともよく知られている一首です。和歌の世界では、秋と言えば紅葉、夕暮れ、雁などが定番の景物です。また、霞は春の景物だとされていたので、この歌は、型破りの和歌だったと考えられます。

原文

見渡みわたせば やまもとかすむ 水無瀬川みなせがわ
ゆうべはあきと なにおもひけむ

現代語訳

見渡してみると、山の麓が霞み、水無瀬川が流れている。夕べの情趣は秋が良いなどとどうして思っていたのだろう。春の夕べの情緒も素晴らしいではないか。

歌川国芳の『百人一首之内』
歌川国芳による浮世絵
Utagawa, Kuniyoshi, 1798-1861, artist, Public domain, via Wikimedia Commons

江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による浮世絵です。
後鳥羽院は、源平合戦の最中に三種の神器の内、草薙剣がない状態で天皇に即位しました

この影響があったのか、後鳥羽院は、自ら作刀するほど刀剣に情熱を注ぎました。

後鳥羽院が愛した菊
菊は天皇家の家紋になっていますが、もとは後鳥羽院が菊を気に入って、刀などに菊の紋を入れていたことがきっかけになったと言われています。

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