日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー
Translated by WILLIAM N. PORTER
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清原元輔
契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波こさじとは
OUR sleeves, all wet with tears, attest That you and I agree That to each other we'll be true, Till Pine-tree Hill shall be Sunk far beneath the sea.Moto-suke Kiyowara
- 42番歌
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契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山 波こさじとは
作者:清原元輔(908年~990年)
出典:後拾遺和歌集 恋
- 現代語訳
- 約束しましたよね。涙に濡れた着物の袖を絞りながら、末の松山を波が決して越えないように私たちの心は変わらないと。
- 解説
- 宮城県多賀城市の海岸近くにある景勝地「末の松山」。この場所は、大きな津波が来ても乗り越えられないと言われ、昔から多くの歌に詠まれて親しまれてきました。この歌では、「末の松山」を例に挙げて、変わらない揺るぎない愛情を表現しています。
- 語句・豆知識
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- 契り き な
- 約束しましたよね
- かたみに
- お互いに
- 袖 を しぼりつつ
- 涙で濡れた袖を
びっっしょり濡らすという意味の「霑る」という説もあります。 - 末の松山 波 こさ じ と は
- 直訳では「末の松山を波が越えることはないだろうとは」という意味ですが、末の松山を波が越える決して起きることがない例えとして使われているため「私たちの愛は決して変わらないとは」という意味が込められています。
- 清原元輔の系図
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清原氏には、天武天皇の皇子である舎人親王の子孫が多く含まれています。清原元輔は祖父の清原深養父と同様に和歌の名人でした。村上天皇の命を受けて『後撰和歌集』を編纂しており、一緒に編纂した仲間には大中臣能宣、源順、坂上望城、紀時文 (紀貫之の息子)がいます。彼らは内裏の後宮にある昭陽舎で編纂していましたが、その庭に梨の木が植えられていたことから「梨壺の五人」と呼ばれました。
元輔は58歳ごろに娘の清少納言をもうけました。元輔は当時としては非常に長寿で82歳頃まで生きています。
- 本歌
- 百人一首に採られた清原元輔の歌は、次の歌が本歌とされています。
本歌では、不変の愛を誓う歌となっています。元の歌(反歌)
君をおきて あだし心を 我が持たば
末の松山 波も越えなむ 『古今和歌集』詠み人知らず現代語訳
あなたをさしおいて浮気心を持つようなことがあったとしたら、 波が決して越えないというあの末の松山を波が越えることでしょう。
- 末の松山(宮城県多賀城市)
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宮城県多賀城市にある丘陵地です。
869年に東日本大震災に相当する「貞観地震」が発生していました。貞観地震でも津波が末の松山を超えることはなかったため、末の松山はあり得ないことの比喩として和歌でたびたび引用されています。ちなみに東日本大震災のときも末の松山周辺の市街地は2mも浸水しましたが、末の松山に避難された人たちは無事だったと報道されています。地図へのリンク - 末の松山(岩手県一戸町)
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岩手県一戸町。奥州街道一戸宿から福岡宿の間。「末の松山」は宮城県多賀城市が第一の候補とされていますが、一戸町の浪打峠を候補とする説もあります。地図へのリンク
- 歌川国芳の『百人一首之内』
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江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による浮世絵です。
百人一首の和歌に合わせた情景が描かれています。
海の近くで松が描かれている様子から歌川国芳は仙台港に近い宮城県多賀城市の末の松山をイメージしたものだと思われます。 - 三十六歌仙
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清原元輔は三十六歌仙の1人。
三十六歌仙の一覧ページはこちらをご覧ください。
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