時雨の百人一首

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花文化の移り変わり

桜は日本人にとってお花見やひな祭りなど、特別なイベントで親しまれている花として知られています。しかし、奈良時代においてはお花見の主役は実は梅でした。当時、梅は中国が原産で、中国の歌人によって漢詩にたくさん詠まれていました。あらゆる面で先進国であった唐に心酔していた貴族は自ずと梅に憧れを感じ、こぞって自分の庭に梅を植え、鑑賞していたと言われています。

梅の花を詠んだ歌

奈良時代末に完成した万葉集には、梅を詠んだ歌は約110首も収録されました。桜を詠んだ歌がわずか43首のみですので、当時の梅の人気を物語っています。

2019年に発表された元号「令和」は、万葉集の一文から引用されていますが、その文は梅について書かれたものです。「令和」は「令月」と「風和」からそれぞれ一字ずつ取って組み合わされています。

原文:

于時、初春月、氣淑風
梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

書き下し文:

時に、初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

現代語訳:

初春のめでたい
空気は清らかで風も穏やか
梅は鏡の前で
白粉をつけた美人のように
白く咲き
蘭は身に帯びた
匂い袋のように
薫っている

次は梅の花を好む鶯の目線で詠まれたユーモラスな歌です。

原文:

うめはな にこそつれ うぐいす
ひとくひとくと いとひしもをる

現代語訳:

梅の花を見に来たらウグイスが
「人が来た、人が来た」と嫌がっている

このように、梅は古来から人気の花でしたが、平安時代に国風文化が隆盛したときに桜の人気が急上昇しました。古今和歌集では、梅の歌が18首収録されたのに対して、桜の歌は70首も収録されたのです。

桜の人気が急上昇したきっかけ

さらに845年頃、桜の人気を象徴するように、平安宮の紫宸殿ししんでん の庭に植えられていた左近の梅が枯れた際に、村上天皇によって桜に植え替えられました。ひな人形の桜は、紫宸殿の桜をモチーフにしているため、もし桜に植え替えられなければ、ひな祭りの花は梅になっていたかもしれません。

ただし、この植え替えについては、実は村上天皇は植え替えのときに桜にする意図は特になかったようです。大鏡にある「鶯宿梅おうしゅくばい」という逸話によると、梅が枯れたとき、村上天皇は、枯れた梅と同じくらい立派な梅を都中で探させたようです。そして、ようやく見つかった梅が植えられることになったのですが、その梅の木に次の和歌が結ばれていました。

和歌:

ちょくなれば いともかしこし うぐひす
宿やどはとわば いかがこたへむ

現代語訳:

天皇の命であれば
恐れ多いのでこの木は献上いたします
しかし、梅の木にやってきた鶯が
私の宿はどうしたのかと聞かれたら
どう答えたらよいでしょうか

手紙の送り主は、紀貫之(百人一首 35番)の娘・紀内侍きのないし でした。村上天皇はこの歌に感動し、梅の木を元に返すように指示し、代わりに桜を植えたのでした。こうして植えられた経緯があるにせよ、紫宸殿の庭のような象徴的な場所に植えられたことによって、日本人にとって桜は特別な花として認識されたと考えられます。

梅も桜も愛した菅原道真

ともあれ、国風文化の影響を受けて、人気を博した桜ですが、遣唐使の廃止を建議し、国風文化のきっかけを作った菅原道真(百人一首 24番)が桜についてどう思っていたかが気にかかります。彼が大宰府に左遷される前に詠んだ梅の歌はよく知られています。

和歌:

東風こちかば にほひおこせよ うめはな
あるじなしとて はるわするな

現代語訳:

春の風が吹いたなら
香りを送っておくれ
梅の花よ
主の私がいなくなったからといって
春を忘れるなよ

道真が詠んだ梅の花と比べると、次の歌はあまり知られていませんが、彼は大宰府に赴く前に桜の歌も詠んでいました。道真は梅も桜も愛する風流な人物だったようです。

和歌:

さくらはな ぬしをわすれぬ ものならば
かぜ言伝ことづてはせよ

現代語訳:

桜の花よ
私を忘れていないのなら、
吹く風にのせて
都からの伝言を
届けておくれ

平安時代の中期以降になると、桜の人気はしっかりと定着し、和歌の世界では「花」と言えば桜を意味するようになります。国風文化の隆盛時代には桜の人気が確立し、桜は特別な存在となりました。

もちろん、梅も桜と同じくらいに重要な存在であり、菅原道真(百人一首 24番)が梅と桜の両方の歌を詠んだように、日本人は梅も桜もどちらも愛でてきたように思われます。