百人一首 幻の歌:
一条院皇后宮・定子の辞世の句
『百人一首』の元になったといわれる『百人秀歌』をご存じですか。『百人秀歌 』も『百人一首』の生み親とされる藤原定家が作ったものです。『百人一首』では『百人秀歌』にあった3名の歌人が外されています。
このページでは外された3名の歌人から百人一首 62番・清少納言が仕えた一条院皇后宮こと藤原定子 の生涯と『百人秀歌』に収められた歌を含む彼女の辞世の歌3首をご紹介します。
定子の誕生
藤原定子は、976年に定子の父である藤原道隆
を祖とする中関白家に誕生しました。
990年に15歳で一条天皇に入内し、女御となり、同年に中宮になりました。
定子は母の貴子(百人一首 54番・儀同三司母)から漢文を教わっており、学問に通じていた一条天皇から非常に寵愛されました。また、父の道隆は関白を務め、中関白家 は権力の絶頂を極めました。道隆は定子の兄である伊周 を露骨に引き上げ、伊周より8歳年上の叔父である藤原道長を飛び越えて21歳で内大臣にしています。
中関白家の没落
権力の絶頂にあった中関白家でしたが、995年に定子の父である藤原道隆 が43歳で急死しました。お酒を飲みすぎて糖尿病を患ったと推定されています。道隆は死の直前に伊周 に関白の座を譲ろうとしましたが、一条天皇に認められず、道隆の弟である道兼が関白を引き継ぎました。関白になった道兼でしたが、わずか数日後に疫病に倒れたため、道兼の弟である藤原道長 が関白に準ずる内覧の職に就いています。
長徳の変と定子の出家
996年、伊周
は寵愛していた藤原為光の娘である三の君の邸宅に逢いに行くと、邸宅の前に豪華な牛車が止まっていました。伊周は三の君が誰かに奪われたと勘違いします。その牛車の主は花山法王でした。花山法王は伊周
が寵愛した三の君ではなく、四の君に逢いに来ていたのですが、勘違いした伊周は弟の隆家
とともに相手が誰かを確認しないまま牛車に矢を射かけます。脅しのつもりでしたが、射かけた矢は花山法王の袖を射抜きました。さらに花山法王の従者である童子2名が伊周
・隆家の従者に殺害されたと記録されています。この事件をきっかけに伊周は大宰権帥に、隆家は出雲権守
に左遷されることに。
この政変を「長徳の変
」といいます。
兄弟は懐妊して二条邸に移っていた定子のもとにやってきて、立てこもります。
しかし、一条天皇の命令で緊急でやってきた検非違使
に強制捜査され、兄弟は連れていかれました。捕らえられる伊周を目の当たりにした定子
は、責任を感じたのか自ら髪を切って出家します。さらに悪いことは続き、定子が住んでいた二条邸は同年の夏に火事により全焼し、10月には定子
は母・貴子が亡くなりました。
定子の相関図
姫皇子の出産後、宮中に戻る定子
997年に定子は修子内親王を出産すると、修子内 親王との対面を強く望む一条天皇によって母子ともに呼び戻されます。定子は元々内裏の中にある「登華殿 」と呼ばれる場所で暮らしていましたが、一度出家した定子が内裏に戻ることに対して貴族から強い反発があり、定子 は内裏の右隣にある中宮関係の役所である職御曹司 を仮御所にすることになりました。それでも定子には貴族から冷ややかな視線が向けられたと伝えられています。
一帝二后の成立
999年にはかつて一族から待望されていた皇子・敦康親王を出産しますが、同日に藤原道長の娘・彰子が一条天皇に入内しました。1000年に藤原道長の政略により中宮だった定子 は皇后になり、彰子が中宮になる「一帝二后」が成立しました。定子は後ろ盾をなくしていたため、道長の娘である彰子 が皇子を出産したら、たとえ后の第1皇子であっても敦康親王の立太子 (皇太子になること)は難しいと考えていたと推測されます。後に一条天皇は三条天皇に譲位する際に敦康 親王を皇太子にしようとしましたが、実際に皇太子になったのは、彰子との間に誕生した敦成 親王(後一条天皇)でした。
定子の死
1000年の暮れ、定子は媄子内親王を出産直後に25歳の若さで亡くなりました。定子 の父を祖とする中関白家が没落の一途をたどる中、定子 が頼れるのは一条天皇の愛だけだったのかもしれません。出産は現代でも大変なことですが、当時はもっとリスクが高いものでした。定子 は自分の死を予感していたのか、自身が寝起きしていた部屋の几帳の紐に3首の歌を結び付けていました。
敦康親王のその後
母である定子をわずか2歳のときに亡くした敦康親王は定子 の妹に引き取られましたが、その妹が一条天皇の子を身籠って急死すると、彰子に愛情深く育てられました。敦成 親王が皇太子になり、敦康親王の立太子が叶わないとわかったとき、彰子は父である藤原道長 に対して怒りを隠さなかったといわれています。
定子の辞世の句
1首目
この歌は一条天皇に宛てた最期の恋文となりました。『百人一首』にはありませんが、『百人秀歌 』に収録されています。当時、悲しみが極まったときに血の涙「紅涙 」が流れると和歌で詠まれることがよくありました。
和歌:
夜もすがら 契りしことを 忘れずは
こひん涙の 色ぞゆかしき
現代語訳:
一晩中お約束してくださったことを忘れずにいてくださるなら、
死んだ私を恋しく思って泣いてくださる涙の色を見たいと思います。
2首目
この歌には亡くなることへの不安な気持ちが詠まれています。存命中に政争の道具にされた定子 にとってあの世にいる両親に会えるとは露にも思わなかったのかもしれません。
和歌:
知る人もなき別れ路 に今はとて
心細くも急ぎたつかな
現代語訳:
誰も頼れる人がいないあの世への路に今となっては心細くても急ぎ立つしかないですよね。
3首目
この歌は定子が土葬を望んだことを示唆したものだと解釈されました。当時、高貴な人々は火葬されるのが一般的だったのですが、定子 は煙になって消えるのではなく、現世に留まりたいという思いが強かったのでしょうか。実際に定子は鳥辺野に土葬されています。
和歌:
煙とも 雲ともならぬ 身なりとも
草葉の露を それとながめよ
現代語訳:
煙にも雲にもならない私の身であっても、草の葉におりる露を私だと思って眺めてください。
一条天皇の歌
定子の葬送の日、雪が降っていたと記録されています。一条天皇は御幸 (天皇のお出かけ)と深雪を掛詞にして詠んだと考えられます。天皇が葬送に参加できるのは
和歌:
野辺までに 心ばかりは 通へども
わが御幸とも 知らずやあるらん
現代語訳:
野辺まで心だけは通いますが、私が雪の中あなたに付き添っていることに気づいてくれるでしょうか。
豆知識
平安時代の葬送
平安時代の都では皇族や貴族、身分の高い僧侶など特権階級は火葬されるのが一般的でした。大量の薪が必要となる火葬は非常に費用のかかったといわれています。このため庶民は自然に風化させる風葬や鳥葬が一般的で、遺体は野ざらしにされることが珍しくありませんでした。
枕草子に描かれなかった定子の悲劇
清少納言が書いた枕草子には、定子と過ごした後宮での和やかで美しい追想や中関白家 の繁栄ぶりがふんだんに記されていますが、定子の悲劇的な部分には触れられておらず、定子 の明るく美しい部分だけが切り取られています。清少納言は中関白家が凋落しても定子 が屈辱的な目にあっても最期まで仕え遂げました。清少納言の百人一首のページはこちらをご覧ください。
百人秀歌について
『百人秀歌』も『百人一首』の生み親とされる藤原定家が作ったものです。制作されたのは『百人秀歌 』の方が先だったと考えられています。その理由は藤原家隆の位階が『百人秀歌 』では正三位であるのに対し、『百人一首』では従二位であるためです。藤原家隆が従二位に叙せられたのは1235年。このため『百人秀歌 』は1235年より前に成立し、『百人一首』は1235年以降に成立したとされています。主な相違点は下表のとおりです。
百人秀歌と百人一首の相違点
百人秀歌 | 百人一首 | |
成立年 | 1235年より前 | 1235年以降 |
歌の数 | 101 | 100 |
配列 | 歌合形式 | 時代順 |
一方にしか 収録されて いない歌人 |
一条院皇后宮 権中納言国信 権中納言長方 |
後鳥羽院 順徳院 |
また、マイナーな違いですが、源俊頼だけ『百人秀歌』と『百人一首』で収録された歌が異なります。詳しくは百人一首 74番・源俊頼のページをご覧ください。