時雨の百人一首

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百人一首 幻の歌:
一条院皇后宮・定子の辞世の句

『百人一首』の元になったといわれる『百人秀歌しゅうか』をご存じですか。『百人一首』も『百人秀歌』も藤原定家が編纂したものです。『百人一首』では『百人秀歌』にあった3名の歌人が外されているのですが、その中に一条天皇の皇后・藤原定子の歌があります。

このコラムでは、藤原定子の生涯と『百人秀歌』に収められていたにもかかわらず、『百人一首』では外された定子の辞世の句をご紹介します。

定子の誕生

藤原定子は、976年に定子の父である藤原道隆みちたか を祖とする中関白家なかのかんぱくけに誕生しました。
990年に15歳で一条天皇に入内し、女御となり、同年に中宮になりました。

定子のイメージ

定子は、母・貴子から漢文を教わり、学問に通じていました。明るい性格で才女であった定子は、学問好きの一条天皇から深く寵愛されました。また、定子の父である藤原道隆は関白を務め、中関白家は権力の絶頂を極めました。道隆は、周囲の貴族からの反発にかかわらず、定子の兄・伊周を露骨に昇進させました。伊周は、8歳年上の叔父である藤原道長を飛び越えて、わずか21歳で内大臣に昇格しています。

中関白家なかのかんぱくけの没落

中関白家は権力の頂点にありましたが、995年に定子の父・藤原道隆が急死しました。お酒の飲み過ぎがたたって糖尿病になったと考えられています。死の直前、道隆は関白の座を長男・伊周に譲ろうとしましたが、一条天皇に認められず、その代わりに道隆の弟である藤原道兼みちかねが関白になりました。しかし、道兼はわずか数日後に疫病で倒れ、その後、道兼の弟である藤原道長が関白に準ずる重職・内覧ないらんの座に就きました。

長徳ちょうとくへんと定子の出家

996年、伊周は恋人の三の君を訪れると、その屋敷の前には豪華な牛車が停まっていました。伊周は恋人の三の君が誰かに奪われたと早とちりし、牛車の主にに矢を射かけました。矢は何と花山法王の袖を射抜いてしまいました。花山法王は三の君ではなく、四の君に会いに来ていただけだったのですが、伊周の誤解は大きな事件に発展します。法王に矢を射かけてしまったことも想定外でしたが、現場にいた花山法王の従者2人を伊周と隆家たかいえ(伊周の弟)の従者が殺害してしまったのです。この事件をきっかけに伊周は大宰権帥に左遷され、隆家は出雲権守に左遷されました。この政変は「長徳の変」と呼ばれています。

その後、伊周と隆家は懐妊していた定子の元に立てこもりますが、一条天皇の命令で検非違使けびいしによって捜査を受け、連行されます。伊周が捕らえられる姿を目撃した定子は、衝撃を受けて、咄嗟に髪を切り、出家してしまいました。その後、定子が住んでいた二条邸は火事で全焼し、10月には定子の母である貴子が亡くなるなど、定子にはさらに不運が続きました。

定子の系図

定子の系図

姫皇子の出産後、宮中に戻る定子

定子が暮らした場所

997年に定子は修子内しゅうしない親王を出産しました。修子内親王との対面を強く望む一条天皇によって、定子は母子ともに呼び戻されます。定子は出家前、後宮にある「登華殿とうかでん」で暮らしていましたが、一度出家した定子が内裏に戻ることに対して貴族から強い反発があり、定子は内裏の右隣にある中宮関係の役所・しき御曹司のみぞうしを仮御所にしました。それでも定子には貴族から冷ややかな視線が向けられたと伝えられています。

一帝二后いっていにこうの成立

999年、定子は強く望まれていた皇子・敦康あつやす親王を出産しました。その同じ日に藤原道長の娘・彰子あきこが一条天皇に入内しています。1000年、道長の策略により定子は皇后となり、彰子が中宮となりました。中宮も皇后も同じ意味ですが、道長は名称を使い分けることで、1人の帝に2の后が存在するという前代未聞の「一帝二后いっていにこう」を成立させました。せっかく皇子を出産した定子でしたが、定子が生んだ敦康親王は、結局、皇太子にはなれませんでした。実際に皇太子になったのは、中宮・彰子が生んだ敦成あつひら親王(=後一条天皇)でした。

定子の死

1000年の暮れ、定子は媄子びし内親王を出産した直後に25歳の若さで亡くなりました。出産は現代でも大変ですが、当時はもっとリスクが高いものでした。定子は自分の死を予感していたのか、自身が寝起きしていた部屋の几帳の紐に3首の辞世の句を結び付けていました。

敦康あつやす親王のその後

母である定子をわずか2歳のときに亡くした敦康親王は、定子の妹に引き取られました。しかし、その妹が一条天皇の子を身籠って急死すると、中宮・彰子が愛情深く育てることに。彰子の子・敦成親王が皇太子になり、定子の子・敦康親王の立太子が叶わないとわかったとき、彰子は父・藤原道長に対して怒りを隠さなかったといわれています。

定子の辞世の句

1首目

この歌は一条天皇に宛てた最期の恋文となりました。『百人秀歌』に収録されていますが、『百人一首』から外された歌です。当時、悲しみが極まったときに血の涙「紅涙こうるい」が流れるといわれていました。定子は一条天皇が紅涙を流す様子を見届けて、2人の愛は本物であったと確認したかったのだと思われます。

和歌:

もすがら ちぎりしことを わすれずは
こひ なみだいろぞゆかしき

現代語訳:

一晩中お約束してくださったことを忘れずにいてくださるなら、
死んだ私を恋しく思って泣いてくださる涙の色を見たいと思います。

2首目

この歌には亡くなることへの不安な気持ちが詠まれています。

和歌:

ひともなきわか に今はとて
心細こころぼそくもいそぎたつかな

現代語訳:

誰も頼れる人がいないあの世への路に今となっては心細くても急ぎ立つしかないですよね。

3首目

この歌は定子が土葬を望んだことを示唆したものだと解釈されました。当時、高貴な人々は火葬されるのが一般的だったのですが、この歌を根拠に定子は鳥辺野に土葬されました。

和歌:

けむりとも くもともならぬ なりとも
草葉くさば つゆを それとながめよ

現代語訳:

煙にも雲にもならない私の身であっても、草の葉におりる露を私だと思って眺めてください。

一条天皇の歌

定子の葬送の日、雪が降っていたと記録されています。一条天皇は御幸みゆき (天皇のお出かけ)と深雪みゆきを掛詞にして、次の歌を詠みました。

和歌:

野辺のべまでに こころばかりは かよへども
わが御幸 みゆきとも らずやあるらん

現代語訳:

野辺まで心だけは通いますが、私が雪の中あなたに付き添っていることに気づいてくれるでしょうか。


豆知識

平安時代の葬送

平安京では、皇族や貴族、身分の高い僧侶など特権階級は火葬されるのが一般的でした。大量の薪が必要となる火葬は費用が高かったため、庶民は自然に風化させる風葬や鳥葬が一般的で、遺体が野ざらしにされることは珍しくありませんでした。

枕草子に描かれなかった定子の悲劇

枕草子には、清少納言が定子と過ごした後宮での和やかで美しい追想が描かれています。中関白家なかのかんぱくけが没落していく様子や定子の悲劇的な部分には触れられておらず、定子の明るく美しい部分だけが切り取られています。清少納言は定子が亡くなるまで仕え遂げました。
清少納言の百人一首のページはこちらをご覧ください。

百人秀歌について

『百人秀歌』は『百人一首』よりも前に制作されました。その理由は藤原家隆の位階が『百人秀歌』では正三位であるのに対し、『百人一首』では従二位であるためです。藤原家隆が従二位に叙せられたのは1235年。このため『百人秀歌しゅうか』は1235年以前に作られ、『百人一首』は1235年以降に作られたとされています。主な相違点は下表のとおりです。

百人秀歌と百人一首の相違点

百人秀歌 百人一首
成立年 1235年より前
1235年以降
歌の数 101 100
配列 歌合形式 時代順
一方にしか
収録されて
いない歌人
一条院皇后宮
権中納言国信
権中納言長方
後鳥羽院
順徳院

また、マイナーな違いですが、源俊頼だけ『百人秀歌』と『百人一首』で収録された歌が異なります。詳しくは百人一首 74番・源俊頼のページをご覧ください。