時雨の百人一首

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日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー

Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox

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法性寺入道前関白太政大臣ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん

わたのはら
こぎいでてみれば
久方ひさかた
くもに ま
おき白波しらなみ

法性寺入道前関白太政大臣
法性寺入道前関白太政大臣

WHEN rowing on the open sea, The waves, all capped with white, Roll onward, like the fleecy clouds With their resistless might; Truly a wondrous sight!The Late Regent and Prime Minister,
the Lay Priest of the Hosho Temple

76番歌
わたのはら こぎいでてみれば 久方ひさかた
くもに ま おき白波しらなみ
作者:法性寺入道関白ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱく太政大臣だじょうだいじん (1097年~1164年)
出典:詞花集 雑
現代語訳
大海原に漕ぎ出してみれば、はるか沖に白雲に見間違えるほどの白波が立っていたよ。
解説
この歌は、崇徳院が天皇在位中の内裏歌合で「海上の遠望」という題で詠まれました。
どんな人?
法性寺入道関白太政大臣こと藤原忠通は摂政関白である藤原忠実の長男として生まれました。忠通には摂関家の後継者となる息子がいなかったため、異母弟の頼長を養子にしました。しかし、後に忠通に実子が生まれたため、頼長との養子縁組を解消し、実子に家を継がせようとしました。これにより、弟の頼長との間に確執が生まれ、後に保元の乱につながりました。保元の乱では、忠通は後白河院の側について戦い、勝利を収めて藤原氏の頂点に立ちました。
語句・豆知識
わたの原
大海原
こぎいでみれ
漕ぎ出してみると
久方の
雲居にかかる枕詞
雲居 に
雲のある所に
まがふ
入りまじって区別できない
白波
沖の白波
藤原忠通の系図
藤原忠通の系図 九条良経 慈円 皇嘉門院別当

藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)は、異母弟の藤原頼長と対立し、上皇をめぐる後白河天皇と崇徳院の対立と相まって保元の乱につながりました。

娘の皇嘉門院が崇徳院の后になったにもかかわらず、崇徳院が兵衛佐局ひょうえのすけのつぼね との間に重仁親王をもうけたことも忠通や皇嘉門院にとって崇徳院や重仁親王を敵視したきっかけになったといわれています。崇徳院側についた弟の藤原頼長は、保元の乱で敗死しています。

忠通の息子・慈円は、史論書『愚管抄』で保元の乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じました。

保元の乱
保元の乱の図式

上皇の座をめぐって後白河天皇と崇徳院が対立した際、摂関家内では藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)が弟の藤原頼長と争っていました。

この天皇家と摂関家をめぐる争いは、武士である源為義を中心とする崇徳院・藤原頼長側と、武士である平清盛・源義朝率いる後白河天皇・藤原忠通側との間で激しい戦闘へと発展しました。

結果として、崇徳院は敗れて讃岐(香川県)へ流されました。藤原頼長は流れ矢に当たって死亡し、平忠正は平清盛によって斬首され、源為義と源為朝は源義朝によって斬首されました。

滋賀で詠んだ歌
次の歌は、唐崎(=現在の滋賀県大津市の湖西地域)で藤原忠通が詠んだ一首です。この地域は、西に800~1,000m級の山々がそびえ、東には琵琶湖が広がる風光明媚な場所です。志賀の唐崎は、多くの和歌に詠まれてきた名所でもあります。なお、この歌は『新古今集』に収められています。

原文

楽浪さざなみ志賀しが唐崎からさき かぜさえて
比良ひら高嶺たかねあられるなり

現代語訳

志賀の唐崎では風が冷たく吹き渡り、
比良山地の高嶺には霰が降っていたよ。

「楽浪や」は「志賀」や「大津」を導く枕詞です。

法性寺
法性寺
運動会プロテインパワー, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

京都市東山区にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。貞信公(藤原忠平)により創建されたと伝えられています。藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)は、このお寺の傍にある別邸に住んでいたことから「法性寺殿」と称されました。

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