日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー
Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox
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三条院
心にも
あらで憂き世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
IF in this troubled world of ours I still must linger on, My only friend shall be the moon, Which on my sadness shone, When other friends were gone.The Retired Emperor Sanjo
- 68番歌
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心にも
あらで憂き世に
ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな
作者:三条院(976年~1017年)
出典:後拾遺和歌集 雑
- 現代語訳
- 不本意であってもこの辛い世を生き長らえたら、この夜更けの月を恋しく思い出すだろう。
- 解説
- この歌は、三条院が孫を天皇にしたい藤原道長から譲位を迫られた時に詠んだものです。三条院は眼の病気でほとんど見えなくなっており、失意の中でこの歌を詠みました。月の光を感じられる今を恋しく思う日が来るだろうと静かに考えていたのでしょう。この歌を詠んでから約1カ月後に退位しました。
- どんな人?
- 三条院は、冷泉天皇の第二皇子として生まれ、36歳で天皇に即位しました。しかし、在位期間はわずか5年でした。その間に2度も内裏が火災に見舞われ、さらに失明につながる病気にも苦しみました。譲位後、三条院は出家し、翌年に亡くなりました。
- 語句・豆知識
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- 心 に も あら で
- 不本意に
- 憂き世 に
- つらい現世に
- ながらへ ば
- 生き長らえたら
- 恋しかる べき
- 恋しく思うだろう
- 夜半 の 月 かな
- 真夜中の月であることよ
- 三条院の系図
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三条天皇が皇太子のとき、娍子は東宮后として入内し、三条天皇から寵愛されました。しかし、藤原道長は自分の娘・妍子を入内させて中宮にしました。これに対抗する形で、三条天皇は娍子を皇后に昇格させましたが、このことが原因で道長との間に軋轢が生じました。最終的に道長は三条天皇に譲位を迫り、天皇は自身の皇子である敦明を皇太子とすることを条件に退位しました。
ところが、三条天皇が崩御すると、道長は敦明親王に対して、皇太子に渡すべき壺切の剣を差し出さないなどして無言の圧力をかけました。その結果、敦明親王は自ら皇太子の廃位を申し出ることになりました。
敦明親王は皇統を継ぐことは叶いませんでしたが、三条天皇と妍子の間に生まれた禎子内親王は後朱雀天皇の皇后となり、後三条天皇を産み、三条天皇の血統は途絶えることなく受け継がれました。
- 心ゆくまで月を見たいと詠まれた歌
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三条院は、来年の秋まで持つかどうかもわからない体調に悩まされていました。それならばせめて今宵の月をしっかり見ておきたいと、次の歌を詠まれました。
原文
秋にまた 逢はむ逢はじも 知らぬ身は
こよひばかりの 月をだにみむ 『詞花和歌集』三条院現代語訳
また秋に逢えるか逢えないかわからない我が身であるから、せめて今宵の月を心ゆくまで見ておこう
- 三条院が受けた治療
- 歴史物語『大鏡』によると、目が見えにくい症状が進行した三条院はさまざまな治療を試したようです。医師から小寒から大寒の冷たい水を御髪におかけなさいと言われ、氷の張った水を頭にかけたり、不老長寿の薬といわれる「金液丹 」を服用したとも伝えられています。「金液丹 」は人体に有害な硫黄や水銀を含んでおり、三条院の眼病はさらに悪化したと考えられています。
- 葛飾北斎による浮世絵
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江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による作品『百人一首姥かゑとき』です。百人一首の歌を乳母がわかりやすく絵で説明するという趣旨で制作されたものです。
眼病を患ったことで譲位を迫られることになった三条天皇。絵に描かれた神事は何を描いたものかはわかりません。厄払いをして三条天皇の眼の回復を願ったのでしょうか。
- 三条天皇のコラム
- 天皇という高い地位にありながら百人一首に採られた三条天皇の歌はどうしてこんなに悲しいものになったのか、当時の政治状況と三条天皇の人生を辿りながら解き明かしているコラムがあります。よかったらこちらをご覧ください。
三条天皇誕生
冷泉天皇の第二皇子として誕生。母は藤原兼家の長女・超子。諱は居貞。
母・超子が死去
三条天皇が7歳のときに母・超子が死去。
兼家の三女・綏子が入内
兼家の三女・綏子が入内。しかし、綏子は1004年に早世します。
娍子を后に迎える
藤原済時の娘・娍子が入内。三条天皇に寵愛されます。
敦明親王が誕生
藤原娍子との間に敦明親王が誕生。
藤原道隆の次女・原子が入内
藤原道隆の次女・原子が入内。しかし、原子は1002年に早世します。
東宮に立太子される
第65代天皇・花山天皇が出家。祖父・藤原兼家の後押しで東宮になりました。
第67代天皇に即位
35歳でようやく天皇に即位しました。
道長の次女・妍子が入内
道長が妍子を中宮としたため、三条天皇は娍子を皇后にしました。
二后並立の状態になり、道長との軋轢が生じました。禎子内親王が誕生
妍子との間に禎子内親王が誕生しました。
妍子が男子を産まなかったことで道長は、三条天皇を見限ったと考えられています。眼病を患う・内裏焼失
藤原実資の日記『小右記』には、三条天皇の容態について「片目不見、片耳不聞」と記されています。
やがて藤原道長から眼病を理由に執拗に譲位を迫られるようになりました。内裏焼失
内裏が再び火事に見舞われました。
天皇を退位
三条天皇は自分の子・敦明親王の立太子を条件に天皇を退位。後一条天皇に譲位しました。
しかし、敦明親王の立太子は道長に反故にされています。藤原道雅が三条院の娘・当子内親王との密通が発覚
藤原道雅がかつて斎宮だった娘の当子内親王に密通していることが発覚。
三条院は、道雅の出仕差止めを命じました。三条院崩御
眼病や内裏の焼失、道長との確執、道雅が娘・当子内親王に密通したことなどで失意の中、4月に出家位し、その翌月、42歳で崩御しました。
敦明親王が東宮を辞退
三条院が崩御すると、藤原道長は敦明親王に無言の圧力を加え、敦明親王は1017年8月に自ら東宮を辞退しました。
敦明親王は、皇位につきませんでしたが、道長の計らいで小一条院の院号が贈られ、准太上天皇の待遇を得ました。
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