時雨の百人一首

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悲劇の三条天皇
悲しい歌が詠まれた背景

次の歌は、百人一首に採られた三条院が詠んだものです。
天皇を譲位される前年に詠まれました。

原文

こころにも あらでに ながら
こいしかるべき 夜半よわつきかな

現代語訳

不本意であっても
この辛い世を生き長らえたら、
この夜更けの月を恋しく思い出すだろう。

天皇という高い地位にありながら、三条天皇はなぜこれほど悲しい歌を詠むことになったのか。このコラムでは、当時の政治状況や三条天皇の人生を辿りながら、その背景を解き明かしていきます。

三条天皇の誕生と藤原氏との関係

三条天皇は、976年に冷泉れいぜい院と藤原兼家かねいえの娘・超子とおこ の間に生まれました。兼家にとって、三条院は大事な孫であると同時に、一族の政治基盤を強固にするための存在でした。

というのも当時の政権担当者は、幼少の天皇を補佐する摂政か成年後の天皇を補佐する関白の座に就くことが必須でした。このため、兼家も自分の娘・超子を天皇家に差し出して、天皇となる子を産ませたのです。

このため、天皇は高い地位にありながらも、政権担当者の藤原氏と共存共栄の道を歩まなければ、天皇という地位は安泰ではなかったのです。

三条天皇の系図

三条天皇の系図

両統迭立

当時、天皇の皇統は冷泉系と円融系が交互に継承する「両統迭立りょうとうてつりつ 」と呼ばれる継承方法が採用されていました。この段落では、両統迭立が生まれた背景と、このことが三条天皇に及ぼした影響についてご紹介します。

両統迭立

少し時代を遡りますが、三条院の父である冷泉天皇は精神の病を抱えていました。そのため、天皇に即位した時点から、その在位期間は長くないと予測され、急いで皇太子を立てる必要が生じました。しかし、その時点で冷泉天皇には皇子がいなかったため、冷泉天皇の同母弟である守平親王(後の円融 えんゆう 天皇)が皇太子に立てられました。

円融天皇は中継ぎの天皇として即位しましたが、譲位する際に、自身の皇子である懐仁やすひと 親王(後の一条天皇)を皇太子に立てることを条件に退位しました。これにより、その後の皇統は、冷泉系と円融系が交互に継承するようになったのです。

後に三条天皇は、藤原道長との間に軋轢が生じたとき、道長から退位を迫られ、三条天皇の皇子である敦明親王も皇太子の廃位を迫られるのですが、道長の立場で考えると、冷泉系の外戚になれないのであれば、円融系の外戚になればよいという選択肢があったのです。三条天皇にとってみれば、不都合な状況でした。

三条天皇の兄・花山天皇の即位

円融天皇が譲位すると、三条天皇の兄である師貞親王(後の花山天皇)が即位しました。しかし、その時点で花山天皇の外祖父である藤原伊尹これまさ はすでに亡くなっており、政権の主導権は伊尹の子・藤原義懐よしちかと、花山天皇の乳兄弟である藤原惟成これしげ が握りました。

藤原義懐と藤原惟成は、荘園整理令の発布や物価の統制といった革新的な政策を打ち出しましたが、周囲の公卿たちは保守派が多く、若い彼らに政権を任せることに対して強い反発がありました。

花山天皇の退位

花山天皇
Tsukioka (Taiso) (1839-1892), Public domain, via Wikimedia Commons

花山天皇は、藤原為光ためみつの娘・忯子よしこ を深く寵愛していましたが、彼女はわずか17歳で亡くなりました。この出来事に大きなショックを受けた花山天皇は、出家して忯子を供養したいと願うようになりました。そのとき弱みに付け込むように藤原兼家が陰謀を働かせ、事態は急展開を迎えます。

兼家の三男・道兼みちかね が言葉巧みに花山天皇を密かに連れ出し、出家させてしまったのです。この出家により、花山天皇は在位わずか2年弱という短い期間で退位を余儀なくされました。

この浮世絵は、月岡芳年による『月百姿』の「花山寺の月」という作品です。花山天皇が出家するために花山寺(=元慶寺)に向かう様子が描かれています。手前にいる人物が花山天皇で、背後にいる人物は藤原道兼です。

一条天皇の即位

花山天皇が退位すると、円融天皇の皇子である懐仁親王が一条天皇として即位しました。藤原兼家は念願の摂政の座を手に入れ、自身の子である道隆、道兼、道長を次々と昇進させ、一族の繁栄の礎を築きました。

一条天皇の一帝二后

一条天皇は中宮・定子を深く寵愛していましたが、藤原道長は自身の娘である彰子を強引に一条天皇に入内させ、定子を皇后、彰子を中宮とする「一帝二后いっていにこう」と呼ばれる体制を作り上げました。こうした動きを居貞親王(後の三条天皇)も見て「一帝二后」という前例ができたことをしっかり認識したと考えられます。また、道長の手段を選ばない強硬策に対して、不安や反発を覚えたかもしれません。

皇太子時代の三条天皇

花山天皇が出家し、一条天皇が即位した976年、居貞いやさだ 親王(後の三条天皇)は、兼家の後押しにより11歳で皇太子に立てられました。このとき皇太子が天皇よりも4歳年上であったため、「さかさのもうけのきみ」と呼ばれたようです。一条天皇は25年間在位したため、居貞親王(後の三条天皇)は36歳になるまでの長い間、皇太子時代を過ごすことになります。

居貞親王(後の三条天皇)の後宮には、989年に藤原兼家の娘・綏子やすこが入内し、991年には藤原済時なりときの娘・娍子 すけこ が皇太子妃として入内しました。娍子は居貞親王(後の三条天皇)から深く寵愛され、四男二女をもうけていますが、995年に父・藤原済時が疱瘡により病死したため、後見が弱まりました。995年には藤原道隆の娘・原子 もとこが入内しましたが、綏子と原子は早世し、最終的に娍子だけが居貞親王(後の三条天皇)の女御となりました。

藤原道長は、一族の外戚の立場を築くため、1010年に次女の妍子きよこを入内させています。

三条天皇の后

入内年 後見(父)
綏子
(974-1004)
989年
藤原兼家
(990-929)
娍子
(972-1025)
991年 藤原済時
(941-995)
原子
(980頃-1002)
995年 藤原道隆
(953-995)
妍子
(994-1027)
1010年 藤原道長
(966-1028)

居貞親王(三条天皇)は、976年に誕生し、1017年崩御しました。
天皇在位期間は1011年~1016年です。

三条天皇の即位と道長との確執

1011年、一条天皇が危篤のために譲位すると、居貞親王は36歳にして、ようやく天皇に即位しました。その翌年、藤原道長は、次女の妍子を中宮に立てました。それに対して、三条天皇は自身が寵愛する娍子を皇后に立てました。この状況は、道長が一条天皇の時に「一帝二后」という体制を作り上げたのとは逆の形となり、道長にとっては容認できないものでしたが、一帝二后は、道長自身が前例を作ったものであり、娍子が皇子を生んでいたため、三条天皇の意向に従わないわけにはいきませんでした。

ただし、この状況は道長のみならず、当時の公卿にとっても受け入れ難いものでした。皇后・娍子の父・藤原済時は、かつて大納言という地位にありましたが、すでに他界しており、娍子の後見は、藤原通任みちとう だけでした。その通任もその時点で参議に昇進したばかりで、公卿の中では最下位に位置していました。当時は、大臣の娘以外が皇后になることは極めて稀であったため、三条天皇が娍子を皇后に立てたことは、政治のパワーバランスを崩しかねないと見なされたのです。

また、1013年に妍子は出産しましたが、誕生したのは男子ではありませんでした。もし男子が生まれていれば、道長が外戚になれるため、三条天皇と道長の関係は改善したと考えられますが、結局、妍子が皇子を授かることはありませんでした。この結果、三条天皇と藤原道長の間の確執は解消されることなく、深まるばかりでした。

ところで、三条天皇にとって道長は叔父にあたりますが、三条天皇の母・藤原超子は、三条天皇が6歳のときに亡くなっており、甥と叔父という関係性があっても2人の間にできた溝が埋まることはなかったようです。

三条天皇の眼病と退位

1014年、三条天皇は眼病を患い、不老長寿の薬とされる「金液丹きんえきたん 」を服用したと言われています。しかし、この薬には有害な硫黄や水銀が含まれており、天皇の病状はさらに悪化したと考えられています。さらに、1014年と1015年には内裏が相次いで焼失するという災難にも見舞われ、天皇は病の苦しみに加え、大きな心労を抱えることになりました。

そのような厳しい状況の中で、三条天皇は、藤原道長や他の公卿たちから退位を迫られました。百人一首に採られた三条天皇の「心にも あらで憂き世に 長らえば 恋しかるべき 夜半の月かな」という悲しい歌は、多くの公卿たちに離反され、孤立を深めた末の心境が詠まれたものだったのです。三条天皇は、この歌を詠んだ翌年の1017年、自身の皇子である敦明 あつあきら 親王を皇太子にすることを条件に退位しました。

敦明親王のその後

皇太子に立てられた敦明親王でしたが、どの貴族も皇太子関係の官職に就きたがりませんでした。道長も皇太子に伝えるべき壺切つぼきり御剣のみつるぎ を差し出さず、無言の圧力をかけました。こうした周囲の状況を踏まえ、敦明親王は天皇に即位することは難しいと考え、自分から皇太子廃位を願い出ました。

つながれた三条天皇の血統

三条天皇の敦明親王に皇統を継がせる願いは叶いませんでしたが、彼と妍子の間に生まれた禎子さだこ内親王は後朱雀天皇の皇后となり、尊仁たかひと 親王を産みました。この尊仁親王は、後に後三条天皇となり、三条天皇の血統は途絶えることなく受け継がれました。

摂関家の藤原氏から
朝廷の権力を取り戻した後三条天皇

後三条天皇は外戚が三条天皇であったため、これまでの天皇とは異なり、藤原氏と距離を置くことができました。彼は「荘園整理令(延久えんきゅう荘園しょうえん 整理令)」を発布し、荘園制度の改革を断行します。当時、多くの農民が厳しい税の取り立てから逃れるために、権力者である藤原氏に土地を寄進していました。藤原氏はその土地から、名前の使用料として税よりも少ない金額の賄賂を得ることで莫大な利益を得ていたのです。後三条天皇は、このような荘園を整理し、税金が正しく納められるように改革を行い、摂関家の藤原氏から朝廷の権力を取り戻しました。

あとがき

三条天皇の詠んだ歌には、時代の波に抗い苦しんだ天皇の心境が表れています。その歌には、諦観だけでなく、自分の子孫に希望を託し、譲位後は月のように静かにその行く末を見守ろうとする気持ちがあったように感じられます。孫の後三条天皇が、藤原氏から朝廷の権力を奪還したことを三条天皇が知ることができたら、きっと感慨無量だっただろうと思います。


用語

摂関政治
自分の娘を天皇に嫁がせ、天皇を産ませることで、天皇の外戚(母方の親戚)になり、皇室との関係を深め、天皇の代わりに政治を行うこと。
一帝二后
一人の天皇に二人の正妻が同時に存在する状態。藤原道長は「中宮」と「皇后」という本来は同じ意味である名称を使い分けることで「一帝二后」を実現しました。
壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)
皇太子または皇嗣に代々受け継がれる太刀。元々は藤原氏の剣を皇位の象徴である草薙剣を模倣して創設されたと考えられていますが、現代でも継承されています。
延久の荘園整理令
後三条天皇が藤原氏や大寺社の経済基盤となっていた荘園を整理し、天皇の権力と国家財政の強化を図る目的で発令された法令。