時雨の百人一首

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日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー

Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox

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順徳院じゅんとくいん

ももしきや
ふるきのきばの
しのぶにも
あまりある
むかしなりけり

順徳院
順徳院

MY ancient Palace I regret, Though rot attacks the eaves, And o'er the roof the creeping vine Spreads out and interweaves Unpruned its straggling leaves.The Retired Emperor Jun-toku

100番歌
ももしきや ふるきのきばの しのぶにも
あまりある むかしなりけり
作者:順徳院じゅんとくいん(1197年~1242年)
出典:続後撰集 雑
現代語訳
宮中の古びた軒先に生えている忍ぶ草を見るにつけても偲んでも偲びきれないのは、昔のよかった時代であることよ。
解説
この歌は、ノキシノブが生えるほど荒廃した宮中を目にした順徳院が、かつて天皇自らが世を治めていた時代を懐かしんで詠んだものと考えられます。「承久の乱」が起きる5年前、順徳天皇が20歳のときに詠まれました。
どんな人?
順徳院は、聡明で活発な性格が後鳥羽院に気に入られ、わずか13歳で天皇に即位しました。宮中の行事やしきたりなどを整理し『禁秘抄』にまとめて朝廷の存在意義を示そうとしました。しかし、25歳のときに父と共に起こした「承久の乱」で敗北したため、佐渡に配流されました。その後は、都に帰ることも、子孫に皇位を継承することも許されず、46歳で崩御しました。
語句・豆知識
ももしき
宮中、内裏
古き 軒ば
古びた軒先
しのぶ に も
忍ぶ草を見るにつけても
なほ あまり ある
やはり偲んでも偲びつくせないほど
なり けり
昔の良かった時代であることよ
順徳院の系図
順徳院は、後鳥羽院の子で、土御門天皇の異母弟です。土御門天皇は4歳で即位しましたが、16歳のときに後鳥羽院によって譲位させられ、順徳院が新たに天皇となりました。温和な性格の土御門天皇に対し、順徳院は気性が激しかったようです。承久の乱の際、土御門天皇は父である後鳥羽院を思いとどまらせようとしましたが、順徳院は父と共に積極的に倒幕を支持したとされています。 順徳院の系図・相関図 後鳥羽院 藤原忠通 慈円 西園寺公経 源実朝

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承久の乱

1185年、幕府が全国に地頭を置いたことにより、朝廷では荘園からの収入が減少し、幕府との対立が深まります。後鳥羽院は北面武士に加えて西面武士を設置し、幕府に対抗する軍事力を強化しました。

1219年、源実朝が甥の公暁に暗殺され、公暁も幕府側の者により殺害されます。この出来事を受け、朝廷では幕府との融和政策を見直す動きが高まりました。さらに、幕府内で後継者争いが起こっていると判断した後鳥羽院は、1221年に北条義時討伐の院宣を発し、「承久の乱」を引き起こしました。

一方、幕府側は西園寺公経の家司らから早くも後鳥羽院の挙兵を察知していました。北条政子は、朝廷が幕府を倒そうとしていると御家人たちに訴え、内乱は朝廷軍と幕府軍の戦いへと発展します。幕府軍は東海道、東山道、北陸道の三道から京都に進軍し、院宣からわずか1カ月で朝廷軍を打ち破ります。後鳥羽院は隠岐に、順徳院は嵯峨に、土御門院は土佐に配流され、仲恭天皇は退位させられました。

佐渡で詠まれた歌
次の歌は佐渡に配流された後に詠まれました。都に戻れず、我が子を皇太子に立てることも叶わなくなった順徳院の苦悩が滲みでています。

原文

いかならむ 明日あしたこころなぐさめて
昨日きのう今日きょうも すぐすころかな

現代語訳

どうなることだろう。明日に託すことで心を慰めて、昨日も今日も過ごすだけの日々だなあ。

真野御陵
真野御陵

新潟県佐渡にある順徳天皇の火葬塚「真野御陵」地図へのリンク

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