時雨の百人一首

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百人一首と言えば平安時代が思い浮かびますが、天智てんじ天皇は飛鳥時代の天皇です。それにもかかわらず、天智てんじ 天皇が百人一首の最初の歌を飾っている理由をご存じでしょうか?

大化たいか改新かいしん

飛鳥時代は聖徳太子の死後、蘇我氏が権力を握っていました。その頃、海外では唐が朝鮮半島を侵略し、東アジアに緊張が高まりました。こうした状況下で、中央集権化の必要性を感じた中大兄なかのおおえの 皇子(後の天智てんじ 天皇)は、中臣なかとみの鎌足かまたりと共に645年に「乙巳いっし へん」を起こして蘇我そが氏を滅ぼし、「大化たいか改新 かいしん 」と呼ばれる政治改革を行いました。この改革では律令りつりょう制度も整備し、豪族の力を抑えることで、天皇中心の政治体制を築きました。

次の絵は江戸時代に住吉すみよし如慶じょけい具慶ぐけいにより描かれた「乙巳 いっしへん」の様子です。この絵には、中大兄なかのおおえの皇子が蘇我そがの 入鹿いるかの首をはねている様子が描かれています。左側で弓を持っているのが中臣なかとみの鎌足 かまたり です。

乙巳の変
Gukei Sumiyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons

壬申じんしんらん

671年に天智てんじ天皇が崩御すると、天智てんじ天皇の弟である大海人皇子と天智てんじ 天皇の息子である大友おおともの皇子が皇位継承を巡って「壬申じんしんらん 」が起こりました。「壬申 じんしんらん」は、2カ月以上に及ぶ戦いの末、673年に大海人おおあまの 皇子が勝利し、彼は天武てんむ天皇として即位しました。

壬申じんしんらんが起きた理由

天智てんじ天皇(中大兄なかのおおえの皇子)は、最初は弟の大海人おおあまの 皇子(後の天武てんむ天皇)を後継者に指名していましたが、晩年になると息子の大友おおともの皇子(弘文 こうぶん 天皇)を後継者に指名しました。当時の皇統は、天皇の長男が継承するとは決まっておらず、実務能力のある皇族が天皇に即位するというのが通例だったため、天智天皇の後継指名は、後に起きた「壬申の乱」のきっかけになったと考えられています。

皇統が天武てんむ系から天智てんじ系へ

天武てんむ天皇の治世以降は、しばらく天武てんむ系の天皇が続きます。しかし、770年に称徳しょうとく 天皇が崩御すると天武系の血統は途絶えました。そこで天智てんじ 天皇の孫である光仁天皇が即位し、皇家の血統は天智系に戻りました。そして、次代の天皇である桓武かんむ天皇の治世において、794年に平安京が創建されました。

平安王朝の太祖・天智てんじ天皇

天智天皇は、大化の改新で天皇中心の政治体制を築き、平安京を開いた桓武かんむ 天皇の直系の祖先であったことから平安時代の人々は天智天皇を平安王朝の太祖として敬いました。このような背景から百人一首の撰者・藤原定家ていかは、天智 てんじ天皇を百人一首の巻頭に据えたのだと考えられています。

天智てんじ天皇の系図

天智天皇の系図


豆知識:藤原氏について

中臣鎌足は藤原氏の祖

中臣鎌足(614~669)は、神事祭祀を職掌とする家柄に生まれましたが、幼い頃から中国に関心を持ちました。隋や唐に渡った経験のある僧・南淵請安みなぶちのしょうあん の塾で国際情勢を学び、日本も唐のように天皇を中心とする律令国家を目指すべきだと考え、蘇我氏の体制を打倒しようと決意しました。そこで中大兄皇子(後の天智天皇)を擁立し、乙巳の変を起こして中大兄皇子と共に大化の改新を進めました。「藤原」の姓は亡くなる前日に天智天皇から大織冠 たいしょっかん (冠位の最上位)とともに賜りました。

中臣鎌足の次男・藤原不比等

中臣鎌足の次男・藤原不比等は、11歳の時に父・鎌足を亡くしており、壬申じんしんらん の際に鎌足の同族有力者が朝廷の中枢から一掃されてしまったため、後ろ盾がなく、下級官人からキャリアをスタートさせました。しかし、すぐに頭角を現して持統天皇に重用され、文武天皇の勅を受けて大宝律令を整備しました。また、長女・藤原宮子を文武天皇の后にして、天皇家との結びつきを強め、権力を握りました。

藤原家の繁栄

藤原四家

藤原不比等には4人の子供がいます。長男・武智麻呂むちまろは南家、次男・房前 ふささき 北家ほっけ、三男・宇合うまかい式家しきけ麻呂 まろ 京家きょうけと呼ばれています。この中で藤原房前ふささき が皇族以外で初めて摂政に就任し、その後、北家の一族が摂政・関白の地位を独占するようになりました。平安時代に活躍する藤原氏はほとんど北家ほっけ の出身で、平安中期に絶大な権力を振るった藤原道長も『源氏物語』の作者である紫式部も藤原北家ほっけの一員です。

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