時雨の百人一首

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咲くやこの歌

競技かるたにおいて、試合開始前に「序歌」として詠まれる咲くやこの花(難波津の歌)。
このコラムでは、この歌についてご紹介します。

和歌:

難波津なにわづくやこのはな ふゆごもり
いまはるべと くやこのはな

現代語訳:

難波津に花が咲いているよ。冬の間は蕾にこもっていた花が、今は春になったと咲いているよ。

作者・王仁博士について

この歌を詠んだのは、4世紀から5世紀頃、古墳時代に百済から渡来した学者・王仁という人物です。 彼は、『日本書紀』や『古事記』に登場し、応神天皇に仕えて儒教や漢字を日本に伝えた人物とされています。中でも彼が日本に持ち込んだとされる『論語』十巻や『千字文』一巻は、日本の学問の基礎を築いたと言われています。

ところで、王仁がこの歌を詠んだという説には、時代的な矛盾も指摘されています。仁徳天皇が在位したとされる時代に、王仁が持ち込んだとされる『千字文』はまだ存在していなかったと考えられているためです。このため、伝承上の人物ではないかと言われることがありますが、彼の功績をたたえる「伝王仁之墓」が、大阪府枚方市藤阪に建てられています。

伝王仁墓

大阪府枚方市にある伝王仁墓。奥に見える色鮮やかな門は「百済門」。材料や機材を韓国から持ち込み、本場の宮大工が建立したそうです。
JR学研都市線 長尾駅から徒歩10分です。

(2025年8月14日撮影)

文字学習の基礎になった咲くやこの花(難波津の歌)

『難波津の歌』は、文字学習において重要な役割を果たしていたことが知られています。全国各地の発掘調査において、奈良時代や7世紀頃の木簡が各地で出土しており、その中には歌が書かれたものがあるのですが、『難波津の歌』が書かれたものが一番多く見つかっています。これらの木簡は、まだ紙が貴重だった時代に、文字の練習用として使われていたと考えられます。

913~914年に成立した『古今和歌集』の仮名序には、『難波津の歌』と『安積山の歌』が「歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける(歌の父母のようで、文字を習う人が最初に学ぶ歌)」と記されています。また、1008年頃に執筆が完了した『源氏物語』には、光源氏が幼い紫の上に結婚を申し込んだ際、祖母が「まだ難波津をだに、はかばかしう続けはべらざめれば、かひなくなむ(まだ『難波津の歌』でさえもきちんと書けない子供ですから)」と答える場面があり、この歌が当時の文字学習の基本として定着していたことが伺えます。

時代を超えて響く、希望の旋律

現在、競技かるたの序歌として知られる『難波津の歌』ですが、そのエッセンスは文字や和歌の学びの始まりを象徴しているというだけでなく、時代を超えて人々の心に寄り添い続けている点にあるのかもしれません。古墳時代という遠い昔に作られたにもかかわらず、その普遍的な情景と希望に満ちたメッセージは、現代を生きる私たちにもすんなりと心に響きます。

「冬ごもり」していた花が、春になって咲き始めるという様子は、誰にとっても身近で、希望を感じさせる情景です。厳しい冬を耐え抜いた後に訪れる春は、まさに新しい始まりであり、希望そのもの。人々に寄り添い、生きる喜びを感じさせてくれるからこそ、これほどまでに長く歌い継がれてきたのかもしれません。