百人一首とは
百人一首は、百人の歌人から一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰です。飛鳥時代から鎌倉時代初期までの約550年間に詠まれた和歌100首が時代順に並べられています。
勅撰和歌集から採取された百人一首
百人一首は、いずれの和歌も国家事業で編纂された「勅撰和歌集」から採首されました。百人の歌人から一人一首ずつ採られています。
収録された和歌のテーマ
百人一首に収録された和歌でもっとも多いのは「恋」の歌です。平安時代において愛情や恋愛の表現が和歌を通じて頻繁に行われていたためと考えられます。勅撰和歌集では、テーマごとに和歌が分類されています。テーマは正式には「部立て」といいます。
百人一首の誕生
百人一首を撰んだのは、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人・藤原定家です。彼は勅撰和歌集の編纂にも関わったことで知られますが、その過程で権力者の意向に振り回されることもありました。
鎌倉時代に編纂された「新勅撰和歌集」では、後堀河天皇の命を受けた定家がその任に当たりました。しかし、定家は編纂にあたって大きな悩みを抱えることになります。というのも、彼は後鳥羽院や順徳院の歌を収録したいと考えていましたが、彼らは承久の乱を起こし、鎌倉幕府に反逆した人物でした。そのため、政治的な配慮から彼らの歌を採用することができなかったのです。これが定家にとって大きな苦悩となったと考えられます。
その後、定家は、親戚の宇都宮頼綱から、別荘の襖に飾るための和歌百首を選んでほしいと依頼されます。定家は、この依頼を「自分の信念に基づいて歌を選ぶことができる」絶好の機会と捉え、1235年頃に百人一首を完成させました。
藤原定家の系図
藤原定家は父・藤原俊成とともに和歌の大家です。御子左家と呼ばれる歌道家として知られていました。
平安王朝を伝える百人一首
百人一首は平安時代を象徴する歌集です。巻頭には、平安王朝の祖と考えられている天智天皇・持統天皇がに配置され、巻末には、鎌倉幕府に抗い貴族文化を守ろうとした後鳥羽院・順徳院が配置され、平安王朝の歴史が百人一首に集約されているように構成されました。
百人一首を編纂した藤原定家が生きた時代は、400年続いた平安時代が終わりを迎え、武士が台頭してきた時代でした。彼は公家であり、歌人であり、古典文学の研究者でもありました。そのため定家は、平安時代の優雅さ、尊さを和歌を通じて後世に遺そうとしたのだと考えられます。