時雨の百人一首

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百人一首とは

小倉百人一首は、平安時代から鎌倉時代にかけて成立した和歌集で、百人の優れた歌人から一首ずつ選ばれた百首の和歌によって構成されています。

これらの和歌がすべて、時の天皇の命によって編纂された国家事業である「勅撰和歌集」の中から厳選されている点は、百人一首の大きな特徴になっています。

収録された和歌のテーマ

百人一首で最も多く詠まれているテーマは「恋」で、43首もの恋の歌が選ばれています。その背景には、百人一首の元になった『古今和歌集』などの勅撰和歌集の仕組みがあります。勅撰和歌集では、歌は「部立て」というテーマ別に分類されており、「恋」は四季と並ぶ非常に重要なジャンルでした。平安時代の貴族社会において、和歌は想いを伝え合うための大切なコミュニケーション手段だったため、優れた恋の歌が数多く生まれ、重要なテーマとして扱われたのです。

百人一首の誕生

百人一首を撰んだのは、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人・藤原定家ふじわらのていか です。彼は数々の勅撰和歌集の編纂に深く関わりましたが、その過程は常に順風満帆だったわけではありません。時には、政治的な思惑に翻弄され、自身の信念を曲げざるを得ない苦悩も味わっていました。定家の苦悩が最も顕著に表れたのが、鎌倉時代に編纂された「新勅撰和歌集」での出来事です。この和歌集は、当時の後堀河天皇の命を受けて定家が中心となって編纂を進めました。

しかし、定家には大きな葛藤がありました。彼は、後鳥羽院や順徳院といった、和歌の才に恵まれた上皇たちの歌をどうしても収録したいと考えていたのです。ところが、この二人の上皇は、鎌倉幕府に反旗を翻した「承久の乱」を引き起こした人物でした。そのため、政治的な配慮から、彼らの歌を勅撰和歌集に採用することは許されませんでした。これは、歌人としての純粋な視点で優れた歌を選びたいと願う定家にとって、計り知れない苦悩と無念だったに違いありません。

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宇都宮頼綱と定家のイラスト

そのような折、定家は親戚の宇都宮うつのみや頼綱よりつな から、彼の別荘の襖に飾るための和歌百首を選んでほしいという依頼を受けます。定家は、この依頼をまさに「自身の和歌に対する信念に基づき、一切の制約なく歌を選ぶことができる」絶好の機会だと捉えました。勅撰和歌集では叶わなかった、純粋な歌の優劣で選定するという彼の情熱が、この時、再び燃え上がったのです。

こうして、定家は1235年頃、それまでの集大成として、自らの美意識と歌人としての誇りをかけて、珠玉の百首を選び抜きました。これが、現在私たちに親しまれている小倉百人一首の誕生です。百人一首は、単なる和歌の選集ではなく、藤原定家の歌にかける情熱と、政治的な制約の中での葛藤が結晶した作品と言えるかもしれません。

藤原定家の系図

藤原定家は父・藤原俊成とともに和歌の大家です。御子左家みこひだりけと呼ばれる歌道家として知られていました。

藤原定家の相関図 入道前太政大臣(西園寺公経) 権中納言定家 皇太后宮大輔俊成 寂連 従二位家隆

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平安王朝を伝える百人一首

小倉百人一首は、単なる和歌のコレクションではありません。それは、約400年にわたる平安時代の栄華と、その終焉を見届けた人々の心の移ろいを凝縮した、まさに「平安王朝の歴史書」ともいえる歌集です。 百人一首の構成を見ると、その意図がはっきりと見て取れます。巻頭には、平安王朝の礎を築いたとされる天智てんじ天皇・持統じとう天皇がに配されています。これは、平安時代という時代の始まりを象徴しているかのようです。

そして、巻末には、武士が台頭する新しい時代にあって、貴族文化の伝統を守ろうと尽力したものの、鎌倉幕府に抗い敗れた後鳥羽院ごとばいん順徳院じゅんとくいんの歌が置かれています。この配置は、平安王朝が終わりを告げ、武士の世へと移り変わる激動の時代背景を色濃く反映しているといえるでしょう。

百人一首を編纂した藤原定家が生きた時代は、400年続いた平安時代が終わりを迎え、武士が台頭してきた時代でした。まさにその激動の渦中にありました。長きにわたって栄華を誇った平安時代が終わりを告げ、公家社会が衰退し、武士が新たな権力を握り始めた時代です。公家であり、卓越した歌人であり、そして何よりも古典文学に深い造詣を持つ研究者であった定家にとって、この時代の変化に大きな危機感を抱いたと思われます。

だからこそ定家は、平安時代の優雅さ、尊さ、そして繊細な美意識を、和歌という形で後世に伝えようとしたのだと考えられます。彼は、選び抜いた百首の歌に、失われつつある貴族文化の輝きと、そこに生きた人々の感情や情景を閉じ込めようとしました。百人一首は、単に美しい歌を集めただけでなく、時代が移り変わる中で、過去への郷愁と未来への希望を託した、藤原定家からのメッセージだと考えられます。