日本語音声:NHKクリエイティブ・ライブラリー
Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox
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二条院讃岐
わが袖は
潮干に見えぬ
沖の石の
人こそ知らね
かわくまもなし
MY sleeve is wet with floods of tears As here I sit and cry; ’Tis wetter than a
low-tide rock,— No one, howe’er he try, Can find a spot that 's dry!Sanuki, in Attendance
on the Retired Emperor Nijo
- 92番歌
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わが袖は
潮干に見えぬ
沖の石の
人こそ知らね かわくまもなし
作者:二条院讃岐(1141年頃~1217年頃)
出典:千載和歌集 恋
- 現代語訳
- 私の袖は潮干のときも見えない沖の石のように、人に知られることはないけれども、涙で濡れて乾く暇もない。
- 解説
- この歌は「寄石恋(石に思いを寄せる恋)」という題で詠まれました。歌は評判になり、二条院讃岐は「沖の石の讃岐」と呼ばれました。父親の源頼政は、涙に濡れる枕を潮が満ちて沈む磯の石に例えた和歌を作っており、その影響があるようです。また、この二条院讃岐の歌は、和泉式部の歌を本歌取りしています。
- どんな人?
- 二条院讃岐は、二条院に仕えた後、後鳥羽天皇の中宮・宜秋門院に仕えました。歌人として、式子内親王の並び称された和歌の名手です。晩年に、父や兄たちが以仁王の挙兵に関わりますが、平氏に敗れ、討ち死にしたり、自害して亡くなり、二条院讃岐は出家しました。
- 語句・豆知識
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- わ が 袖 は
- わたしの袖は
- 潮干 に 見え ぬ
- 潮が引いた海岸には見えない
- 沖 の 石 の
- 沖に沈んでいる石のように
- 人 こそ 知ら ね
- 誰も知らないけれども
- かわく ま も なし
- 乾く間もない
- 二条院讃岐の系図
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二条院讃岐は、女房として二条天皇に仕えました。二条天皇が崩御すると、諸説ありますが、藤原重頼と結婚し、重光と有頼を設け、その後、後鳥羽天皇の中宮・宜秋門院(九条任子)に仕えたと伝えられています。
二条院讃岐の父である源頼政は、息子たちと共に以仁王の挙兵に関わりましたが、平家に敗れ、討ち死にしたり、自害して亡くなりました。
この影響により、二条院讃岐は、父の所領だった遠敷郡宮川村(現小浜市宮川区)に身を寄せたと言われています。
その地は、福井県の田烏という場所で、若狭湾沿岸部にあり、平地が少ない同地では、山を切り開いた棚田が広がる「田烏の棚田」が有名です。その棚田の一角には「二条院讃岐姫居館址」という碑が立っています。
二条院讃岐はその辺りから「沖の石」と呼ばれる海岸から2km離れた沖にある岩礁を眺めながら、「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の…」という百人一首の歌を詠んだと言い伝えられています。
この逸話が正しければ、二条院讃岐が詠んだ「沖の石」は海中ではなくて、いつも波があたって乾く間がない岩礁を詠んだということになりそうです。
- 本歌
- 二条院讃岐は、次の歌を本歌取りして、沖の石の歌を詠みました。
原文
わが袖は 水の下なる 石なれや
人に知られで かわく間もなし 『和泉式部集』和泉式部現代語訳
私の袖は水の下の石のようです。人知れず流す涙で私の袖は乾く暇もありません。
- 二条院讃岐の居館址がある
田烏の棚田 -
福井県小浜市にある田烏の棚田。奥に見えるのは日本海で、海岸から2km離れた場所に「沖の石」と呼ばれる岩礁があります。 地図へのリンク
- 歌枕「沖の石」
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「沖の石」は宮城県多賀城市にある歌枕です。
松尾芭蕉も同地を訪れています。地図へのリンク - 二条院讃岐を触発した源頼政の歌
- 二条院讃岐の父である源頼政は、歌人としても名高い人物でした。
二条院讃岐は、次の歌に触発されて、沖の石の歌を詠んだのではと言われています。原文
ともすれば 涙にしづむ 枕かな
潮満つ磯の 石ならなくに 『頼政集』源頼政現代語訳
どうかすると枕は涙に濡れ、沈んでいくようだ。潮が満ちて海に沈む磯の石というわけではないのに。
- 源頼政の辞世の句
- 二条院讃岐の父である源頼政が以仁王の挙兵に関わるも平氏に敗れました。
次の歌は、平氏に追い詰められた源頼政が自害する直前に詠んだ歌です。原文
埋木の 花咲くことも なかりしに
身のなる果てぞ 悲しかりける 『平家物語』源頼政現代語訳
埋れ木が花を咲かすことがないように、老いた私が勝つ見込みのない挙兵に関わった果てに不本意な結果になってしまったことは悲しいことだ。
- 鵺退治
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鵺、頭が猿、胴体が狸、手足が虎、尾が蛇という姿の妖怪です。平安時代後期、鵺は毎晩、丑の刻に清涼殿に現れ、不気味な鳴き声で天皇を悩ませていました。
二条院讃岐の父であり、弓の名手であった源頼政が退治を命じられ、鵺を射抜いて退治したと伝えられています。この鵺の正体は、繁殖期に夜に鳴く習性があるトラツグミではないかと言われています。
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