時雨の百人一首

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Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox

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崇徳院すとくいん

をはやみ
いわにせかるる
滝川たきがわ
われてもすえ
とぞ おも

崇徳院

われてもす
ゑにあはむ
とそおもふ

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77番歌
をはやみ いわにせかるる 滝川たきがわ
われてもすえに あとぞ おも
作者:崇徳院すとくいん(1119年~1164年)
出典:詞花和歌集
現代語訳
川瀬の流れが早く、岩にせきとめられた滝川のようにあなたと別れてもいつかはまた会いたいと思う。
解説
この歌は、離れ離れになった恋人との再会を誓った歌という説と、権力を失った崇徳院がいずれ復権してみせることを誓った歌だという説があります。心の奥底にある抑えがたい情熱と冷静に行動しようとする葛藤が感じられます。
どんな人?
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子として5歳で即位しましたが、鳥羽上皇から崇徳院は祖父の白川院の子であるとして叔父子おじご と呼ばれ疎まれてました。22歳でだまされて天皇を譲位させられ、息子が天皇に即位する大方の予想も阻まれました。心中に鬱積した長年の憤懣から保元の乱を起こしますが、敗れて讃岐に流され、都には一度も帰ることを許されず同地で亡くなりました。
語句・豆知識
を はや み
川の流れが速いので
せか るる
岩にせき止められる
滝川
滝川のように
われ ても
分かれても最後には
あは 思ふ
逢いたいと思う
係助詞「ぞ」を受けて、文末は連体形になっています。
崇徳院の系図
崇徳院の系図

崇徳院は鳥羽天皇の第一子として生まれましたが、曾祖父の白河院が待賢門院璋子を寵愛していたという噂があり、鳥羽天皇は崇徳院を叔父子おじご (叔父でもあり、自分の子でもあるという意味合い)と呼んで冷遇しました。

崇徳院は鳥羽天皇から近衛天皇を養子にするよう勧められ、譲位しました。しかし、譲位の宣命には近衛天皇が「皇太弟」と記されており、近衛天皇が崇徳院の弟である場合、崇徳院は院政を行うことができません。これにより、崇徳院は鳥羽天皇の策略に陥れられました。

さらに、近衛天皇が崩御した際、次の天皇として崇徳院の皇子である重仁親王が最有力とされていましたが、鳥羽天皇は後白河天皇を即位させました。

保元の乱
保元の乱の図式

上皇の座をめぐって後白河天皇と崇徳院が対立した際、摂関家内では藤原忠通が弟の藤原頼長と争っていました。

この天皇家と摂関家をめぐる争いは、武士である源為義を中心とする崇徳院・藤原頼長側と、武士である平清盛・源義朝率いる後白河天皇・藤原忠通側との間で激しい戦闘へと発展しました。

結果として、崇徳院は敗れて讃岐(香川県)へ流されました。藤原頼長は流れ矢に当たって死亡し、平忠正は平清盛によって斬首され、源為義と源為朝は源義朝によって斬首されました。

地名になった崇徳院
松原神社
Bittercup, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

保元の乱に敗れ、讃岐に護送される途中、崇徳院を乗せた船は暴風雨に遭い、現在の兵庫県尼崎市に一時避難しました。そのとき村人はこのしろ(魚のコハダ)、はまぐり、かき、よめな(キク科の野草)、ごぼう、やき米などで崇徳院をもてなしたと言われています。その縁から近くにある松原神社では、素盞嗚命すさのおのみこと三輪明神みわみょうじんとともに崇徳院が相殿神あいどのしんとして祀られるようになったとされています。

さらに、この地域には「崇徳院」という地名が残されており、現在でも尼崎市には崇徳院1丁目~3丁目があります。

白峯寺
白峯寺

香川県坂出市にあるお寺。白峯寺の参道には、源頼朝が崇徳天皇の菩提のために建立したと伝えられている「白峯寺十三重石塔」があります。地図へのリンク

歌川国芳の『百人一首之内』
歌川国芳による浮世絵
Public domain

崇徳院は、讃岐に流された後、都に戻ることを許されませんでした。心の支えとして仏教に帰依し、3年かけて多くの経典を書き写しました。そして、「せめてこの写経だけでも都へ届けてほしい」と願いましたが、後白河天皇は呪詛を恐れて受け取りを拒みました。

これを恨んだ崇徳院は、自ら舌を噛み切り、その血で写経に大魔縁だいまえんとなり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書き加えたと伝えられています。これは、後白河天皇を呪う言葉でした。

晩年の崇徳院は、浮世絵に描かれているように髪や髭、爪を伸ばし続け、まるで天狗のような姿になったと言われています。

日本三大怨霊
菅原道真、平将門、崇徳院は政争に敗れ、失意の中で恨みを抱えたまま亡くなり、都に災いをもたらす怨霊になったと信じられました。 崇徳院の死の10年後に後白河天皇に近い人たちの相次いで亡くなったり、京都では1/3が焼失する「安元の大火」が発生たりして、これらの災いは崇徳院の呪いであると恐れられたようです。
西行が崇徳院に贈った歌
崇徳院が亡くなってから3年後、西行は崇徳院の魂を鎮めるために白峰御陵を参拝しました。次の歌は、都に戻りたいと願いながらも叶わず亡くなって、成仏できていない崇徳院に対して、西行法師が捧げたものだと考えられます。

原文

ながらへて つひにむべき みやこかは
このはよしや とてもかくても 『山家集』西行法師

現代語訳

どれほど長く生きてたとしても都に永遠に住めるわけではありませんから。 いずれにせよ現世のことはもうよいではありませんか。

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