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Translated by WILLIAM N. PORTER
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河原左大臣
陸奥の
しのぶもぢずり
誰ゆゑに
乱れそめにし
我ならなくに
みたれそめ
にしわれな
らなくに
みち
- 14番歌
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陸奥の
しのぶもぢずり
誰ゆゑに
乱れそめにし 我ならなくに
作者:河原左大臣(822年~895年)
出典:古今和歌集 恋
- 現代語訳
- 私の心は、陸奥産のしのぶもぢずりの乱れ模様のように乱れてしまった。私のせいではありませんよ。
- 解説
- この歌は、恋人への思いを抑えきれずに、乱れた気持ちを染め物の乱れ模様に例えています。
- どんな人?
- 河原左大臣こと源融は、嵯峨天皇の皇子でしたが、母親の身分が低かったため、臣籍降下し、皇族から臣下になりました。陽成院が退位したときは、天皇に自薦しましたが、藤原基経によって阻止されました。この失意から、融は次第に政治から身を引くようになり、京都の六条に河原院という豪華な邸宅を建て、道楽で陸奥の塩竃の風景を模して、毎月三十石の海水をわざわざ運ばせて塩造りをしました。その豪奢な生活ぶりから、紫式部が著した『源氏物語』の主人公「光源氏」のモデルになったといわれています。
- 語句・豆知識
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- 陸奥 の
- 陸奥(産出)の
- しのぶもぢずり
- しのぶもぢずり
- 誰 ゆゑ に
- 誰のせいで
- 乱れそめ に し
- 乱れ始めたのか
- 我 なら なくに
- 自分のせいではないのに
- もぢずり石
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写真:(公財)福島県観光物産交流協会 「しのぶもぢずり」は、漢字で「信夫文知摺」と書きます。「信夫」は福島県信夫地方のことで、「文知摺」は石に草木をこすりつけて布にその色を移す染色技法のことです。福島県信夫地方では、平安時代から鎌倉時代にかけてこの染色が盛んに行われました。福島市にある曹洞宗寺院・普門院の境内には「もぢずり石」と呼ばれる幅約3m、高さ約2.5mの巨石があります。この「もぢずり石」は実際の染色に使われていたと言い伝えられています。写真は、その「もぢずり石」です。地図へのリンク
- ネジバナ(モジズリ)
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「ネジバナ」はラン科の植物で「モジズリ」という別名を持っています。「モジズリ」の名前はらせん形に花を付ける姿が乱れ模様である信夫文知摺と似ていることが由来といわれています。日本各地で見られ、日当たりのよい平地に自生します。茎は10~40cmほど。地域によりますが、5月~9月に開花します。
- 源融の系図
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■の番号が付いている人物をクリックすると、その歌人のページに移動します。
源融は嵯峨天皇の第12皇子でしたが、臣籍降下し、「源」の姓を賜りました。歴史物語『大鏡』によると陽成天皇が譲位された際、宮中で次の天皇を誰にするか会議が行われました。そのとき、62歳の左大臣・源融は「いかがは。 近き皇胤をたづねば、 融らもはべるは」と言って自分が継承候補になりうる旨を主張しました。しかし、摂政の藤原基経は、源氏に臣籍降下した者が天皇に即位した例はないとして、源融の主張は退け、光孝天皇を天皇に即位させました。
ところが、時代が下って光孝天皇が崩御した際、光孝天皇の子女はすべて臣籍降下していました。それにもかかわらず、藤原基経は光孝天皇の第7皇子を宇多天皇として即位させました。
- 伊勢物語に登場する
信夫摺を詠み込んだ歌 - 『伊勢物語』第一段「初冠」で、信夫摺の狩衣を着た主人公が鷹狩に出掛けました。そこで見かけた姉妹の美しさに心を乱された主人公は、次の歌が詠んでいます。
原文
春日野の 若紫の すりごろも
しのぶの乱れ 限り知られず 『伊勢物語』現代語訳
春日野の若い紫草で染めたこの信夫摺のように、
私の恋心は限りなく乱れています。 - 伊勢物語に登場する
河原院の庭を賛美する歌 - 『伊勢物語』の第八十一段「塩竃」で、源融は、親王たち招待し、河原院で酒宴を催しました。皆が御殿を賛美する歌を詠み終みましたが、ある翁は、河原院の塩竈の地を模した庭を賛美する歌を詠みました。
原文
塩竃に いつかは来にけむ 朝凪に
釣りする舟は ここに寄らなむ 『伊勢物語』現代語訳
いつの間に塩竃に来たのだろうか。 朝凪の中で釣りをする舟はここに寄って来てほしいものだ。
- 伊勢物語絵巻
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東京国立博物館提供 伊勢物語絵巻巻第5 抜粋 伊勢物語絵巻巻第5から抜粋したものです。
塩竈の地を模した河原院の庭が描かれています。 - 歌川国芳の『百人一首之内』
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British Museum, Public domain, via Wikimedia Commons 江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による浮世絵です。
百人一首の和歌に合わせた情景が描かれています。 - 地名に残る塩竃を模した河原院
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源融が建てた豪奢な屋敷・河原院には陸奥の塩釜の風景を模して庭が造られ、海水を運び込んで塩焼きを楽しんだと伝えられます。河原院は平安時代末期に焼失してしまいましたが、現在でも河原院跡があり、当時を偲ぶことができます。また、河原院跡近くには塩竃町、本塩竃町という町名が残っています。
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